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ボナール<ミモザの見えるアトリエ>

ピンク色の壁紙が貼られた、画家のアトリエ。その窓から見えるのは、濃い青色の海と、レンガ色の屋根の連なり、そして、満開のミモザ。
なんと眩い黄色だろう。
この自室から見た南フランスの春の風景を描いた〈ミモザの見えるアトリエ〉は、「色彩の魔術師」ピエール・ボナールの晩年の作品だ。
彼が描いた最も美しい作品の一つと言えるかもしれない。
今回は、この〈ミモザの見えるアトリエ〉誕生の物語を追ってみよう。

①ミモザと南フランス

ミモザ(フサアカシア)は、元々はオーストラリア原産のアカシア属の植物である。18世紀後半、イギリスのプラントハンターによって、当時植民地だったオーストラリアからヨーロッパへと持ち帰られた。
その後、この植物は既にヨーロッパに存在していたミモザ属(オジギソウ)と葉の形が似ていたために混同され、「ミモザ」という呼び名が定着したとされている。
19世紀後半になると、ミモザは今度はイギリス人たちによってバカンス先だった南フランスのカンヌなどの邸宅の庭に植えられるようになる。温暖なコートダジュール地方の気候に合ったことに加え、黄色い房状の花がもたらす明るい色彩効果も相まって、ミモザは南フランス一帯に広まっていった。
現在、ボルム・レ・ミモザから香水の街として名高いグラースに至るまでの約130kmの道はミモザ街道として知られている。街道沿いにある8つの村や街では、ミモザの生産が行われたり、ハイキングコースが設けられ、ミモザの花が咲く毎年1〜2月は、多くの観光客が訪れる。特にマンドリュー・ラナプールでは、毎年2月中旬にミモザ祭りというイベントが行われる。
このように、ミモザは南フランスの風土と文化に深く根付いた存在なのである。
そして、この南フランスに強く惹かれた画家の一人がピエール・ボナールである。

②ピエール・ボナール

ピエール・ボナールは、1867年にパリ近郊の町フォントネ=オ=ローズで生まれた。
最初の頃は、父の意向もあって、大学の法学部で学んだが、絵画への情熱は断ちがたく、私立の画塾アカデミー・ジュリアンに登録し、通うようになる。そこで出会ったのが、セリュジエ、ヴュイヤールら後に「ナビ派」を結成する友人たちだった。
しばらくは2足の草鞋を続けていたボナールだったが、1889年に《フランス=シャンパン》のポスターがコンペに当選したのをきっかけに、本格的に絵の道に進むことを決意する。
同じ頃に、ボナールは友人らと共に、それまでの写実に重きを置く伝統から離れ、「新しい芸術表現」を志し、「ナビ派」を結成した。
メンバーは、ポスト印象派の画家ゴーギャンや、日本美術などを手本にそれぞれ表現を追求したが、中でもボナールは、浮世絵や屏風などの日本美術に熱中し、「日本かぶれのナビ」とあだ名されたほどだった。

実際に作品を見てみよう。

ピエール・ボナール、〈格子縞のブラウス〉、1892年、オルセー美術館(出展:Wikipedia)(パブリックドメイン)


この〈格子柄のブラウス〉は、1892年にボナールの妹アンドレをモデルに描いた一枚だ。やや縦長な画面が掛け軸を思わせる。
また、アンドレが着ているブラウスの格子縞は、浮世絵に描かれた日本の着物の柄にインスパイアされたものと考えられ、他の作品にもよく登場するモチーフだ。
奥行きの浅い空間も相まって、アンドレもブラウスも、彼女が抱いている犬も、一つの装飾文様をなしているように見える。
日本美術へのこだわりと、そこから学んだ成果を自分のものとして消化・吸収しようとする意欲のうかがえる一枚である。
また、この絵をはじめ、ボナールは好んで家族や友人、自宅など身近で愛着のあるモチーフを取り上げ、その姿勢は生涯にわたって貫かれた。そのため、彼は「親密派(アンティミスト)」とも呼ばれている。

③南フランスにてーーー〈ミモザの見えるアトリエ〉

グループとしてのナビ派は、約10年で自然消滅し、メンバーはそれぞれの道を歩み始めた。
ボナールも、それまでの平面的な画面構成をベースに、先輩にあたるモネら印象派たちの光の表現や明るい色彩への関心を深めていく。
1909年、画家マンギャンに誘われて、南フランスのサン=トロペに長期滞在したボナールは、北部のパリとは異なる、強く明るい太陽の光とその下で輝く色彩、そして温暖な気候に強く心惹かれた。1925年には、カンヌの後背地にあたる小村ル・カネに別荘「ル・ボスケ(茂み)」を購入し、制作の拠点とした。この「ル・ボスケ」は、やがてボナールの終の棲家となる。
パリではキュビスムやシュルレアリスムなど、新たな美術の潮流が目まぐるしく生まれていたが、ボナールはそれらから距離を置き、自分の表現を深化させることに力を注いだ。
そして1939年、第二次世界大戦が勃発し、続く1940年にはナチス・ドイツによってフランスが占領される。それでもボナールはル・カネに留まり、ひたすら自分の創作に打ち込んでいた。

しかし、1940年代は、ボナールにとって悲しい出来事の続いた時期でもあった。
1940年に、まずナビ派時代からの親友ヴュイヤールが、そして1942年には長く連れ添ってきた妻マルトが亡くなった。
出来事はボナールに強い痛みをもたらした。そして、その痛みに耐え、生きていくための手段こそが制作だった。
〈ミモザの見えるアトリエ〉も、そんな日々の中から生まれた一枚である。

ピエール・ボナール、〈ミモザの見えるアトリエ〉、1939〜46年(出展:Wikipedia)(パブリックドメイン)

暗めの色調でまとめられた室内に対し、窓の外の風景、特に大きな黄色い塊と化した満開のミモザはなんと輝かしく見えることだろう。
よく見ると、画面の左隅には、妻マルトと思しき丸顔の女性の姿が描き込まれているが、今にも色彩の中に溶解してしまいそうだ。彼女がこの作品の制作中に亡くなったことを考えると、どこか儚い気配を帯びて見える。
だからこそ、外で今を盛りと咲くミモザの「生」が、より際立つ。
慣れ親しんだアトリエ。そこから見える風景。だが、ずっと連れ添ってきた、ボナールが何百枚と描いたマルトはいない。
それでも、春が来て、また庭のミモザが花を咲かせる。そして、それを見て描いている、ボナール自身がここにいる。

1946年頃、ボナールはもう一枚、ミモザを主役とした作品として〈ミモザのある階段〉を描いている。

ピエール・ボナール、〈ミモザのある階段〉、1946年頃、ポーラ美術館(出展:Wikipedia)(パブリックドメイン)

こちらは、「ル・ボスケ」の庭、つまり屋外を舞台にした作品だ。弧を描きながら上へと続く階段の両脇には草木が生い茂り、その先では、
南フランスらしい鮮やかな青空を背景にミモザが咲き乱れている。この黄色と青の組み合わせが、互いを引き立て合っているだけではない。
他の木々の緑や、画面上部からのぞく白い花をつけた木の枝など、画面は様々な色彩と生命の気配に満ち、一枚の豪華なタペストリーを成している。
階段の中ほどには、こちらを振り返る家族連れと思しき人物たちもいる。彼らは、晩年のボナールの世話をした甥とその家族だろうか?
想像はつきない。

この1年後の1947年1月、ボナールは79歳で亡くなる。
ミモザが咲き始める時期でもあった。


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