ジャン=フランソワ・ミレー<タンポポ>
タンポポは、私たちにとって身近な春の花の一つだろう。黄色い丸い花はささやかながらも、春らしい明るさを灯してくれる。白い綿毛を吹き飛ばす遊びを、子供の頃の思い出の一つとして持っている人も少なくないだろう。
しかし、道端などに生えるその姿は、見過ごしたり、踏みつけたとしても、私たちはそれを気に留めることはほとんどない。
そんなタンポポを主題として取り上げた画家がいる。
〈種まく人〉など農民の絵で名高いジャン=フランソワ・ミレーだ。彼の名を聞くと、多くの場合、思い浮かぶのは力強い〈種まく人〉や深い精神性をたたえた〈晩鐘〉などの油彩画だろう。それらの作品に比べると、パステル画〈タンポポ〉の持つ柔らかさや温かさは、主題のスケールの小ささも相まって、やや異質とも言える。
だが、彼はなぜ、わざわざこのような道端の花をクローズアップして描いたのか。
作品の誕生プロセスを紐解いてみよう。
①パステル画の歴史
パステルとは、粉末の顔料にアラビアゴムなどを加えて棒状に固めた画材であり、名前は「練り固めたもの」を意味するラテン語に由来する。
水などは必要なく、画用紙に直接描くことができる上に、顔料そのままの美しい色彩が現れる。さらに指や筆でこすることでグラデーションを生み出せるし、色を塗るだけではなく、角(エッジ)を使ってシャープな線を引くなど表現のバリエーションも豊富だ。
こうしたパステルが誕生したのは15世紀のルネサンス時代で、レオナルド・ダ・ヴィンチもフランスの画家から学び、使っていたと言われている。
そんなパステルが一定の地位を得たのは18世紀のフランスだった。明るく軽やかな物が好まれたロココ時代、パステル画は人気を博し、中にはモーリス・カンタン・ド・ラ・トゥールのようにパステルによる肖像画を専門とする画家もいた。
そんなラ・トゥールの代表作で、当時のパステル画の最高峰とも言うべき作品が<ポンパドゥール侯爵夫人の肖像>だ。

ポンパドゥール侯爵夫人は、国王ルイ15世の公的寵姫で、美貌だけでなく政治的センスと高い教養を備えた存在だった。政治に参画して、長年の宿敵だったオーストリアとの和解(外交革命)を主導しただけではない。セーブル窯の支援をしたり、百科全書の刊行を後押しするなど文化の庇護にも力を注いだ。
そんな彼女の姿をほぼ等身大に描いたこの作品には、楽器や紙ばさみ、手にした楽譜など、夫人の高い教養を示すアイテムがちりばめられている。ドレスの模様や楽譜の内容など、細部も緻密に描きこまれている。袖口の柔らかなレースと、机の貝殻型の装飾の硬質な質感の描きわけも見事だ。
そして、ほの白く輝く夫人の顔は、柔らかくリラックスした雰囲気の中にも知性に裏打ちされた気品が感じられ、フランスの文化のリーダー的存在だった彼女の魅力を今に伝えている。
18世紀末、ロココ文化の担い手だった特権階級がフランス革命によって没落すると、彼らが愛したパステル画も一時期衰退する。しかし、完全になくなったわけではない。
19世紀半ば頃から、その手軽さや色合いに魅せられた画家たちが再びパステルを手に取り始める。
フランソワ・ミレーもその一人である。
②ミレー、1860年代の転機
絵の道に入ったばかりの20代の頃、ミレーは自分の方向性に迷い、模索する日々が続いていた。
伝統的に最も高尚なジャンルとされる歴史画や、顧客の獲得を見込めそうな肖像画、さらには18世紀のロココ風の裸婦や風俗画にも挑戦したが、いずれも結果ははかばかしくなかった。
ようやく30代で「農民」というモチーフを見出し、一部からは評価されるものの、保守的な批評家たちからは批判の声が強かった。
まず、歴史上の英雄の事績や出来事を主題とする歴史画を最高位に置く伝統の視点から見て、農民の生活は「卑俗」と映ったこと。しかも、ミレーはそれを美化せずに描いたことが、反発を招いた。
〈種まく人〉にいたっては、革命の種をばらまいている、とまで評された。
それでもミレーは、〈落ち穂拾い〉など、農民を主題にした作品を描き、送り続けた。評価は賛否両論あり、なかなか安定しなかったが、1864年、ついに道が開ける時が来た。
1864年のサロンに出品した〈羊飼いの少女〉が、好評を得たのである。

広々とした平原で、羊の群れが草を食み、赤い帽子に分厚いマントを羽織った少女が編み物をしている。その足元には綿毛をつけたタンポポが点々と見え、ささやかなアクセントを添えている。
暮れなずむ空、そして雲越しの柔らかく地上に注ぐ光が、静かな憂いを帯びた詩情を醸し出す。
批評家の1人は「最高峰の芸術」と絶賛し、政府からは買い上げの申し出もなされた。
最終的に、もともとある個人からの注文で描いた作品だったために申し出は断ったが、この〈羊飼いの少女〉の成功は、ミレーにとって大きな転機となる。
翌1865年9月、友人ルソーが連れてきたパリの建築・不動産業者エミール・ガヴェから、パステル画の大量の注文がなされたのである。
ミレーの才能に惚れ込んだガヴェは、彼の作品を集めた独自のギャラリーを作ることを夢見ていた。その実現には、相応の作品数が要るし、それらを一から描いてもらうとなると時間もかかる。
しかし、パステル画なら油彩画と異なり、乾燥などの手間がかからないため、短期間での量産が可能だ。多忙なビジネスマンであるガヴェにとって、短期間で良質なコレクションを作り上げるのにうってつけだった。
こうして、ガヴェが3年間毎月決まった手当を払い続けるのと引き換えに、ミレーは集中的にパステル画の制作に取り組む、という契約が結ばれた。
③主題の広がりー〈タンポポ〉誕生へ
ガヴェとの契約は、ミレーにとってさらなる成長のチャンスとなった。
経済的安定を手に入れたことで、精神的にも余裕ができたことも大きいだろう。
下書きなど準備に時間のかかる油彩画に対し、パステル画は即興的に線を引き、仕上げていくことができる。またパステルならではの柔らかな色彩はミレーを大いに刺激した。
それまでのミレーの作品は、〈種まく人〉などに見られるように、茶色をベースにした暗い色調のものがほとんどだった。しかし、パステル画への取り組みを通して、色彩は明るくなった。柔らかなグラデーションによる表現は、風景への関心を高め、特に黄昏時や冴え冴えとした月が照らす夜景など、新たなレパートリーをも増やした。
彼が約4年間に描き、ガヴェに渡したパステル画は90〜100点と言われている。その中で、手慣れた農民や農村に始まり、故郷の情景や夜の光景、さらには通常なら見過ごしてしまいそうな道端の小さな草花をも描くようになっていた。
その中で生まれた一枚がこの〈タンポポ〉である。

舞台となっているのは牧場の片隅だろうか。
〈羊飼いの少女〉では、小さく点々と描かれていたタンポポが、ここでは主役として画面いっぱいに大きく描き出されている。
ひょろひょろと伸びた茎の先には、愛らしい黄色い花だけでなく、まだ蕾のものや真っ白な綿毛に生え変わったもの、さらにその綿毛の大部分がすでに飛ばされてほとんど残っていないものまで、千差万別だ。
周囲の草花は色も形も精緻に描き分けられ、地面に埋まった石と共に、タンポポという一つの生命の存在を静かに引き立てている。
この作品におけるタンポポは、ささやかながらも、確かな生命の輝きが凝縮された、春の証なのかもしれない。
ミレーが1870年までの約四年間に、ガヴェに納品したパステル画の総数は95枚にも達した。
これらの制作は、ミレーが新境地を開くきっかけともなった。特に光の表現への関心と向上は、〈春〉(1868〜73年)をはじめ晩年の傑作の数々へとつながっていく。
パステル画と並行して〈晩鐘〉など油彩画も収集していたガヴェは、念願のミレー・ギャラリーの実現に向けて取り組むが、1871年、普仏戦争とそれに続くパリ=コミューンの内戦の最中に破産を宣告されてしまう。
コレクションも手放さざるを得なくなり、1875年に競売にかけられる。
この競売を目にしたのが、当時画商見習いをしていたゴッホだった。会場に出された95枚のミレーのパステル画に、ゴッホは大いに感銘を受け、以来、ミレーは憧れの存在として彼の心の中にあり続けた。数年後、自らも絵の道へと歩みだした際には、ミレーに本格的に私淑し、アルルでも〈種まく人〉などミレーへのオマージュ作品を手がけている。
ミレー自身のささやかな感動から生まれた絵は、今もどこかで誰かの心に種を落としているのかもしれない。
