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ミュシャ ヒヤシンス姫

アルフォンス・ミュシャ、といえば、アール・ヌーヴォー。
そしてアール・ヌーヴォーといえば、ミュシャの名がその代表格としてあがる。
19世紀末のパリの街を華やかなポスターで彩ったミュシャは、まさに「時代の子」という言葉がふさわしい。
が、華やかなイメージは彼の人生のほんの一部分に過ぎない。
1900年の第五回パリ万博でアール・ヌーヴォーが頂点を極めると共に衰退に向かい始めた時、ミュシャもまた新たな夢に向けて歩みだした。
今回は、ミュシャのチェコにおける後半生とポスター作品〈ヒヤシンス姫〉を紹介しよう。

①1900年、パリ万博

アルフォンス・ミュシャは、1860年当時オーストリア帝国領だったモラヴィア(現チェコ共和国東部)のイヴァンチッチェに生まれた。
ウィーンやミュンヘンで修行を積み、伝統的な技法を身につけた後、1887年、27歳の時にパリに出てきた。
当時のパリは「ベル・エポック」と呼ばれる文化の爛熟期を迎え、舞台や音楽など様々なジャンルで文化活動が展開されていた。
ミュシャも本や雑誌の挿絵を描く仕事で糊口をしのいでいたが、1894年末に大女優サラ・ベルナールのためにポスター〈ジスモンダ〉を手掛けたことで、ポスター画家として電撃的なデビューを飾る。
その後も引き続きサラ・ベルナールのためのポスターを手掛ける傍ら、ビスケットや自転車などの広告用ポスター、さらには装飾パネルなども受注制作し、ミュシャは商業画家として順調にキャリアを積んでいく。

アルフォンス・ミュシャ、<ルフェーブル=ユティール ゴーフレット・ヴァニーユ>、1896年(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia)

しかし、華々しい成功を収める一方で、ミュシャは故郷イヴァンチッチェを思い、自分がフランス人ではなくチェコ人であるという事実を常に意識し、忘れることはなかった。
その思いは、1900年のパリ万博がきっかけにより強まった。
このイベントに、ミュシャはサラ・ベルナールのためのポスターや装飾パネルをはじめ、数多くの自身の作品を出品したが、一方でオーストリア=ハンガリー帝国のための仕事も引き受けていた。
その一つが、ボスニア=ヘルツェゴビナ館の内部装飾である。ミュシャは、この仕事のためにバルカン諸国に取材旅行に赴き、現地に残る生活体系や伝承に触れた。そしてボスニア史から12の場面を選び出し、大規模な絵巻物として建物の内部に描き出した。
この仕事で、ミュシャは銀賞を獲得したが、同時に自身のルーツであるスラヴの歴史に対する知識と関心を深め、新たな夢を思い描くようになる。
自分の残りの人生と芸術を故国チェコ、そしてスラヴ民族のために捧げたい、と。

②チェコ人アルフォンス・ムハとして

チェコへの思いは、1908年、アメリカのボストンで、チェコ出身の作曲家スメタナの交響詩『わが祖国』の演奏を聞いたことでさらに強くなった。
そして1910年、ミュシャはついに祖国へと帰還。名前もフランス語読みの「ミュシャ」から本来のチェコ語読みの「ムハ」へと戻した。
翌年には、長く構想を温めていたスラヴ民族の歴史を主題とする大画面の連作〈スラヴ叙事詩〉の制作に着手し、17年あまりの歳月を費やす。
それと並行して、チェコの文化やスラヴ民族意識の賞揚に関わるポスターの制作にも取り組んでいた。
その一つが〈ヒヤシンス姫〉である。

アルフォンス・ミュシャ、<ヒヤシンス姫>、1911年(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia)

『ヒヤシンス姫』は、1911年にチェコの国民劇場で初演されたバレエ・パントマイム作品で、鍛冶屋の娘が魔女にさらわれてヒヤシンス姫に変身するというおとぎ話である。主演はチェコの人気女優アンドゥラ・セドラコヴァが務めた。
ポスターを描くにあたり、ミュシャはパリ時代と同じく円形の枠を用い、その中に女性を配するスタイルをとった。星を散りばめた背景も、かつてサラ・ベルナールのために手掛けたポスター〈椿姫〉を想起させる。

が、全体的な雰囲気はパリ時代とは大きく異なっている。
一番の違いは女性の描き方だろう。
パリ時代のポスターに登場する女性たちは面長で夢見るような表情で、見る者に誘う蠱惑的な眼差しを投げ掛けていた。
が、この〈ヒヤシンス姫〉で描かれるのは、主演セドラコヴァをモデルにした丸顔のスラヴ人女性だ。
裾に刺繍を施したスラヴ風の衣裳をまとい、袖口からは、がっしりした腕が覗いている。何よりも印象的なのは、真っ直ぐにこちらを見つめる青い目だろう。可憐さの中にも意思の強さを感じさせ、忘れがたい印象を残す。
そんな彼女の髪飾りや冠などのアクセサリー、手にした環にはヒヤシンスをモチーフにした装飾がほどこされている。パリ時代にサラ・ベルナールのためにアクセサリーデザインも手がけた経験がここに活かされている。
中でも頭を飾るヒヤシンスの赤色は、パリ時代には見られなかった色彩であり、寒色系でまとめられている中にアクセントを添えている。
このように〈ヒヤシンス姫〉制作を通して、ミュシャはパリ時代に作り上げたスタイルをベースとしながらも、スラヴ民族のカラーを反映した新しい表現を作り出してみせた。

③その後

1918年、第一次世界大戦が終結し、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、チェコはチェコスロヴァキア共和国として独立を果たす。
ミュシャ、いやムハにとってこの瞬間を見られたことは大きな喜びだっただろう。
新生共和国のため、ムハは国章や切手、紙幣のデザインを無償で手がけたほか、市民会館市長ホールの内部装飾や、プラハ城内の聖ヴィート大聖堂のステンドグラスのデザインも行った。
1928年には、全20枚の大作<スラヴ叙事詩>を完成させ、かねてから考えていた通り、その全てをプラハ市に贈呈する。

アルフォンス・ミュシャ、<スラヴの歴史の神格化>(『スラヴ叙事詩』20枚目)、1926年(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia)

が、プラハ市はこの贈り物に喜ぶよりもむしろ困惑した。作品が巨大すぎて市内での展示が難しかったためだ。
また、キュビスムなどのモダニスムの流れがプラハにも押し寄せてきており、ムハのベースとなっている伝統的な技法やアール・ヌーボー様式は、既に時代遅れと化していた。そもそもチェコ出身で自身もチェコ人であることを自認していたとはいえ、外国で活動して名を揚げたムハ(ミュシャ)は、プラハ在住の芸術家からすれば「よそ者」だった。
ムハが心血を注いだ大作は贈呈後30年以上にわたって「お蔵入り」となってしまう。
その後、1938年のナチス・ドイツの侵攻でチェコスロヴァキア共和国は解体、併合されてしまうのである。ムハも「作品がチェコ国民の愛国心を刺激する」としてゲシュタポに目をつけられ、1939年に拘束される。その後帰宅を許されたものの、持病の肺炎が悪化し、7月14日、プラハで亡くなった。
78歳だった。

シンデレラのようなサクセス・ストーリーに始まる華やかな前半生と、民族主義者として、理想のために自分の生涯と芸術を捧げることを願った後半生。
アルフォンス・ミュシャはこれら2つの顔を持つ芸術家であり、どちらか片方を見るだけでは、彼を十分理解したとは言えまい。
そして、その2つの「顔」をつなぐ作品こそポスター<ヒヤシンス姫>である。
パリでの経験を土台にしつつ、スラヴ的モチーフを散りばめたこの作品は、「アルフォンス・ムハ」として歩き出そうとする画家の一歩であり、理想に対するひたむきな思いが込められた結晶にも例えられよう。
その愛国心ゆえにミュシャはナチスに目を付けられ、大戦後に成立した共産党政権下では存在を黙殺された。が、現在のチェコ共和国においては、国を代表する「国民的画家」として認知されている。
2025年2月には、プラハに新たなミュシャ美術館が開館。さらに2026年にはミュシャの集大成<スラヴ叙事詩>の恒久展示使節もまたオープンする予定である。


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