(短編小説)海と空のあいだ
防波堤に足を投げ出して座った。ザラっとしたコンクリートがデニムの表面に引っ掛かった。陽の光が水面に反射して眩しくて、目を細めた。
遠くの船が通るたびに、白い波紋が解けていく。
春とはいえ、まだ冷たさが残る風が私の頬を撫でた。
両手を空に向けて、大きく背伸びをする。
新学期が始まって一週間が過ぎた。毎朝、子どもたちを送り出してここに来る。なぜか分からないけれど、ここがいちばん落ち着く気がする。
今日は一段と水が澄んでいるようだ。足元を覗くと、小さな魚がきらっと光った。
「ねぇ、おばさん!」
後ろから、女の子の声がした。
振り返って見ると、中学生らしい女の子がひとり立っていた。
周りを見回す。私とその子しかいない。すると、もう一度声がした。
「ねぇ、そこのおばさんてば!」
私に向かって言っている。
「ちょっと、何なのさっきから、おばさんて。失礼じゃない」
パーカーにデニム、スニーカー、肩に付くくらいのショートボブ。
どこからどう見ても中学生だ。
「おばさん、いくつ?」
「いくつって、三十七歳だけど」
「じゃあ、おばさんでいいじゃん。私のお母さんと同じ歳だもん」
初対面の私に馴れ馴れしい態度に、ムッとした顔をした。それに、おばさんだなんて…
「あなた、学校は?」
「学校?今日は行かないことにした」
「何それ。まぁ、私がどうこう言うことじゃないからね」
「おばさん、分かる人じゃん」
女の子は、私の隣に座った。何を話すのでもない。ふたりで並んで座っていた。防波堤に打ち寄せる波が、ときどきザブンと水しぶきを上げる。
しばらく、無言で海を眺めていた。体が少し冷えてきた。
そろそろ戻らなきゃ、そう思って立ち上がった。
「私、そろそろ帰るね。あなたも気が向いたら、ちゃんと学校行くんだよ」
「はぁい」
言い終わるか終わらないうちに、その子はコンクリートの上に仰向けになった。ふわぁ、とあくびつきで。
「ねぇ、おばさん、明日もここに来る?」
「たぶんね、雨が降らなきゃ」
そう言って、防波堤を戻った。
馴れ馴れしい子、しかも学校に行っていないなんて。
防波堤を半分くらい戻ったところで、振り返る。その子はまだ寝そべったままだった。潮風でベタついた頬を擦った。
それが、あの子との出会いだった。
今日も朝から晴れていた。洗濯物を干し終えて、出かける準備をする。
防波堤の先に、あの子の姿が見えた。
「おばさん、また会ったね」
「明日も来るって、聞いたのはそっちでしょ」
「まあね」
私も隣に腰を下ろした。今日は、風も波も穏やかで、少し暑いくらいだった。
「おばさんの名前、何て言うの?」
「あのね、普通は名前を尋ねる前に、自分の名前を言うものなのよ」
「美玖」
美玖は視線を海に向けて言った。
「私は、ひかり」
私も、海を見ながら答えた。
「ひかりは何でここに毎日来ているの?」
「ちょっと、ひかりって呼び捨てにしないで。それなら、おばさんでいい」
「空と海のあいだを見ているのが、好きなんだ。この水平線の先まで行ったら、空と海がくっついちゃいそうでしょ。絶対にくっつかないのに、どこかでくっついちゃいそうって、想像するのが好きなんだ」
「要するに、現実逃避ってやつ?」
「何かさ、美玖の言葉って棘があるよね」
私は、思わず苦笑いを浮かべた。こんな子が親戚にいたら、お年玉を減額してやる。
「美玖は、何で学校へ行ってないの?」
「何だか、息苦しくってさ」
美玖はため息交じりに呟いた。
「でも、このままじゃ高校だって行けないよ」
「義務教育だから卒業はできるよ。それに、高校卒業したからって、何になれるの?」
「でも、自分の夢に近づくチャンスは広がるでしょ」
「おばさんは、夢に近づけたの?夢を叶えているの?」
美玖は私を覗き込んだ。純粋に問いかけるような黒い眼の奥に、吸い込まれそうだった。
「私は絵を描きたかった。でもさ、芸術で喰っていけるなんて人、そういないから」
夢と現実、というものがある。
私はそれ以上、言葉を繋げなくてただ海を見ていた。そのうち、美玖も分かる時が来ると思う。
「じゃあ、おばさん、私の絵を描いてよ」
美玖は目を輝かせながら言った。
「いいけど、でも、道具ないから明日ね」
「うん、明日ね」
「私、そろそろ帰るわ」
そう言って立ち上がると美玖は、じゃあね、と私に手を振る。
久しぶりに絵を描く。それだけなのに、私の胸は少しだけ高鳴っていた。
「あっ、ちょっと動かないで」
鉛筆を落としそうになった。私の声に美玖がビクッと肩をすくめた。
美玖はすぐに視線を海に戻した。
「私さ、来週から、アメリカに行くんだよね」
「へぇ、いいじゃん。何泊の予定なの?」
「うーん、長くて3年ちょっとかな」
鉛筆が止まった。
「3年て、留学するの?卒業式もまだなのに?」
「うん。卒業なんてどうにでもなるよ。ここの息苦しい世界から自由になりたいんだ。向こうでの生活にも、早く慣れたいし」
「いいな、若いって。なんでもできる」
美玖の横顔が輝いて見えた。
「おばさんだって、まだ、若いじゃん。もう一回さ、ちゃんと絵を勉強してみたらいいじゃん」
無邪気な言葉が、胸を刺した。鉛筆を強く握り締めた。
「そんな簡単に言わないでよ。子どもに手もお金もかかるのに、できるわけない。それに、私は働いていないし。」
言ってからはっとする。いくら相手が中学生だからって、こんなキツイ言い方しなくてもいいのに。
「そういうところ、嫌いなんだよね。ウチのお母さんみたい。子どものためだって、できないことを子どものせいにしている。そういうのも、ほんっと、息苦しいんだよね」
美玖は、防波堤の上にごろんと仰向けになった。
「ちょっとぉ、まだ、描いている途中なんですけど。しかも、描いてといったのは、美玖の方でしょ」
水面がきらきらと光る。
遠くで「クァクァクァ」とカモメの鳴き声がする。
私は、どうして絵を描くのを引き受けてしまったのだろう。唇を噛んだ。
「もう、今日は終わり。続きは、また今度ね」
スケッチブックと鉛筆を乱暴にトートバッグに突っ込んだ。
そして、振り返らずに防波堤を戻った。
翌日は、雨降りだった。防波堤には行けなかった。
ひとりのリビングで、雨音を聞きながら、描きかけの絵を広げた。
消しゴムのカスだけが、増えていった。
途中にあるコンビニでチョコミントとクッキー&クリームのアイスを買って防波堤に向かった。
厚い雲の隙間から、ときどき陽が零れる。ちょっと違ったかな、と袋に視線を落とした。美玖は防波堤の先に座っていた。私の足音に気づいて振り返った。
「どっちがいい?」
袋から取り出して、美玖に選んでもらう。
「こっちがいい」
美玖はチョコミントを選んだ。
「えー、意外」
「私はこれ、好きだよ。歯磨き粉みたいって言う人もいるけど、私はこれが好き。それに、好き嫌いを他人に決められたくない。おばさんにもね」
その言葉に、棘はなかった。
胸の奥にくっ付いて、引っ付き虫みたいに取れなかった。
ふたりで海を見ながら、アイスを食べた。食べ終わる頃には、すっかり体が冷えてしまって服の袖を抱えるように縮こまった。私はトートバッグから、スケッチブックを取り出し美玖に絵を見せた。
「私って、こんな顔をしているんだ」
美玖はスケッチブックを手に取り、絵に見入っていた。
「いい顔してると思うけど」
「私ね、絵をちゃんと習おうかなって思ってる。学校に通うのは、難しいけれど、近くの喫茶店でマスターが月一で絵画教室をやっているんだ。そこに通おうかなって」
「いいじゃん」
「美玖はアメリカでやりたいことって何?」
「特に決めていない。あっちでゆっくり深呼吸してから、見つけたい」
「まぁ、それもいいかもね。若いからなんでもできるよ」
「おばさんだって、まだ若いじゃん」
美玖に、おばさんと言われるのも、悪い気はしなかった。
「買い物しなきゃ。そろそろ帰るね」
「おばさん、アイスご馳走さま。あと、元気でね」
「うん、美玖もね」
そう言って、別れた。連絡先も聞かなかった。お互いに下の名前しか知らない。次に会える約束も、しなかった。
あれから3日後。私は、また、いつもの防波堤に来た。美玖の姿は…なかった。水平線の向こうには、空と海がくっつきそうな光景が、そこにあった。
≪終わり≫
