物語【シロクマ文芸部】
物語の中に入る、という能力を得た。
これは、日ごろ現実逃避ばかりしている僕にとっては、うってつけの能力と言えるだろう。便利な力だ。
本の中にも世界は広がっている。僕は登場人物の誰かを選び、乗り移るかたちで物語に参加するのだ。展開を知らなくてもかまわない。必要な言葉は、勝手に口をついて出てくる。
ただ、どのように行動しようとも、ストーリーの流れを書き換えることはできない。あくまでも、登場人物の視点で話の中に入れるだけだ。
物語に入るというのは、実にエキサイティングな体験だ。
『桃太郎』になってみた。鬼がガチで襲いかかってくるのが怖すぎた。
『ぐりとぐら』のライオンになった。完成したカステラを、誰よりも早く食べた。実にうまかった。
『アリス』のトランプ兵になった。仕事を聞いたら、狂人扱いされた。やはり、他人と関わるのは苦手だ。
『ムーミン谷』でスナフキンと語ると、焚き火のかたちさえ意味を持つような心地がする。
いちど入ると、物語が最後に到るまでは出られない。そこは難点だ。
うっかり、人物の伝記などに入ってしまった場合には、僕は人生のほとんど全部をかけて付き合わされることになるだろう。
だから、入る本は十分に吟味しなくては──。
待てよ?
僕は気付いた。
僕の人生などに、なんの意味がある?
僕は中学1年から不登校だ。このまま自分の人生を進めたところで、ド底辺のニート人生は確定している。
物語の中に逃げ込む能力は、まさに僕の逃げ癖がかたちになったものである。これは、与えられたチャンスではないのか。
逃げよう。
素晴らしく成功した人物の、その人生へ。
誰が良いか?
僕が選んだ伝記は、『徳川家康』だ。
大勢の忠臣に支えられ、困難を乗り越え、時に彼らを失って苦悩しながら、最後は天下を泰平に導く。
そうだ。僕は英傑になりたい。みんな僕にひれ伏すべきなんだ。
今日から僕が、神君だ──。
──どうやら、違う本に入ったらしい。
それは、すぐにわかった。
時代が違う。ここは、明らかに室町後期ではない。建物の様子、人々の着物などから類推するに、大正か、昭和か⋯⋯。
言葉の訛りから言って、東北だろうという見当はついた。
これは、母の仕業だ。
ごく稀に、僕も外出することがある。母は、部屋を勝手に掃除するのだ。そのとき、本のカバーを別のものと取り違えたのに違いない。
いつも、やめろと言っているのに。あのババア、帰ったら殺してやる。
葉蔵、と呼ばれた。
葉蔵。葉蔵、葉蔵⋯⋯。
終わった。『人間失格』。
完
参加させていただいたのはこちら。
