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「Happy End」の違和感は正しかった―羽生結弦さんの表現をめぐって

前回、「Happy End」について書いた記事に思いがけずたくさんの反応をいただきました。ありがとうございました。
あそこまで読んでいただけるとは、正直思っていませんでした。でもそれだけ、あの演技に何かを感じながらもそれをうまく言葉にできずにいた方が多かったのだろうと思います。

私自身はもともと羽生ファンというより、長年YMOや坂本龍一さんの音楽を聴いてきた側の人間です。
だから最初は「羽生結弦さんが坂本龍一さんの曲を使った」というより、「あの『Happy End』をしかも東北ユースオーケストラの生演奏で使うのか」と東北ユース寄り、どちらかといえば音楽の側から見ていました。

そして実際に演技を見て、驚きました。
曲名から連想するような“幸福な結末”では、まったくなかった、というのは大多数の方が感じたことでしょう。でも私は「Happy End」という曲の暗さがここまで忠実に表現されているとは!という驚きの方でした。
表情も、動きも、空気も、ひどく切実で、きれいに着地する物語というより、傷を抱えたままどこか限界に近い場所を進んでいくような演技でした。

あのとき戸惑った羽生ファンの方がいたのは、ごく自然なことだったと思います。
「Happy End」という題名なのに、どうしてこんなに苦しいのか。どうしてあんな表情になるのか。なぜ、あんな終わり方なのか。

前回述べたように、あの曲自体がもともと“そのまま明るく幸福な曲”ではないからです。

坂本龍一さんの「Happy End」は、YMO時代からどこか異質な曲でした。
ノイズのようなざらつき、不穏さ、緊張感、そして題名とのずれ。この「ずれ」こそが、あの曲の大事なところだと私は思っています。
「Happy End」という言葉は、ここでは安心や解決をまっすぐ指していない。むしろ、そう簡単には幸福と言えないものに、あえてそう名づけるような皮肉やねじれを含んでいます。

しかもこの曲は、その後の編曲や演奏によって、少しずつ別の表情も見せるようになります。
たとえば2014年に坂本さんが弾き振りで東京フィルハーモニー交響楽団と共演したときの「Happy End」は、美しく澄みきっていて、演奏としてはひとつの完成形のように感じられました。今回の東北ユースの演奏も、目を閉じて聴いていればそのように感じられるはずです。
けれども今回の羽生さんの捉え方は、そうした洗練の方向とは少し異なっていたように思います。むしろ教授の若い時代の蹉跌や痛みを汲み取り、そこから別のかたちのアートへと変えていた。私にはそう見えました。

だからこそ、今回の演技が“きれいな感動”だけでは終わらなかったことに、私は強く納得しました。
羽生さんは、ただ曲の美しさを借りたのではなく、その背後にある痛みや反語性まで受け取ったうえで、「Happy End」を選んだのではないかと思ったからです。

その思いは、後からメンバーシップのラジオを聴いてさらに強まりました。
そこで語られていたのは、単なる演目の裏話ではありませんでした。
震災の傷やトラウマを「外から見つめる」のではなく、自分自身の内側の問題として表現しようとしていたこと。
周囲の音楽や世界は美しく流れていくのに、自分の脈だけは速く、自分の傷だけが生々しく痛んでいること。
そうした「内と外のずれ」を、このプログラムの核として考えていたこと。

それを知って、私はあらためて思いました。あの「Happy End」は、癒やしの物語ではなかったのだと。傷が消えて元通りになる物語ではなく、傷を抱えたまま、それでも生きていく物語だったのだと。

ここが、羽生さんの表現のすごさなのだと思います。
美しいものを美しく見せることは、もちろんできる。
でも今回すごかったのは、簡単には美しいと言い切れないもの、題名と中身がずれてしまうもの、痛みや矛盾を含んだものを、そのまま引き受けて表現していたことです。
それは“うまく滑る”こととも、“きれいに見せる”こととも少し違う。もっと深いところで、作品と格闘していたのではないかと思います。

私は前回の記事で、「Happy End」は一般的な意味でのハッピーエンドというより、むしろ“トゥルーエンド”に近いのではないかと書きました。
悲しみや喪失がきれいに解決して終わるのではなく、傷も痛みも残ったままで、それでも現実を引き受けていくこと。その意味での終わりであり、同時に、その先へ続いていく生でもあるようなものです。

ラジオを聴いたあと、その考えは少し深まりました。
あのプログラムには確かに“終わり”がある。けれど、それは完全な閉塞ではない。終わりを終わりとして見つめながら、それでもなお、その先の可能性をゼロにはしていない。だからこそ苦しいし、だからこそ美しいのだと思います。

震災から15年という時間も、きっとそういうものなのだと思います。
すべてが解決したわけではない。傷が消えたわけでもない。でも、だからといってすべてが閉じたわけでもない。
その途中にいること、その途中を生きていること自体がひとつの現実です。

「Happy End」という題名はその現実に対してひどく逆説的です。
けれど逆説的だからこそ、むしろ本当のことに近づいているのかもしれません。
幸福とは言い切れない。けれど終わりでもない。傷を抱えたままでも、人はなお生きていく。そういう現実に対してあえて「Happy End」という名前を与えること。そこにこの曲のそして今回の演技の切実さがあったように思います。

前回の記事を書いたとき、私は主にYMOファン、坂本ファンとしての文脈からこの曲を見ていました。でも今回は、そこに加えて、羽生結弦さんという表現者がこの曲をどう受け取り、どう自分の身体で引き受けたのかを考えずにはいられませんでした。

正直に言えば、私は今回のことで、羽生さんを見る目がかなり変わりました。もともとすごい人だということは知っていました。見た目も滑りももちろん素晴らしい。
でも、それ以上に、作品の裏側にあるものを読み取り、それを自分の表現に変えてしまう人なのだと知ってしまった。少なくとも私は、そこに強く心を動かされました。

もし前回の記事を読んでくださった方や、「Happy End」にまだ少し引っかかりが残っている方がいたら、その違和感はとても大事なものだと思います。あのモヤモヤは、単なる見当違いではなく、この作品の核心に触れた感覚だったのかもしれません。

ここまでお読みくださりありがとうございました。よろしければスキ♡、やチップをいただければ励みになります!

(補足)
たくさん反応をいただきありがとうございます。
補足をひとつ。 今回書いたことは羽生さん本人の真意を「断定」するものではありません。ご本人が何をどこまで込めたのかは当然ご本人にしかわからない部分があります。
その上で、演技、音楽、そして公演後の言葉から、私はあの「Happy End」をそのように受け取りましたということです。あくまで一人の受け手としての解釈ですが、軽い推測ではなく、強い実感をもって書いております。

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