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日本人の物語00761【鎌倉末期】九の宮と児島高徳*

 この後醍醐天皇の隠岐配流に関連して、『太平記』はいくつかのエピソードを記しています。
 最初に紹介するのは、数えで8歳になる九の宮(後醍醐天皇の第九皇子)が
「父は隠岐に出発するまで、白河に幽閉されているようだが、なぜ会わせてくれないのか」
としつこく尋ねたという話です。
 中御門宣明(なかみかどのぶあき:1302~1365)が
「白河は、能因法師が『都をば 霞とともに たちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関』と詠んだとおり、遠方の地です」
と適当なことを答えたところ(00547回参照)、九の宮は
「奥州の白河(福島県白河市)と京の白河(京都市左京区)は別物だ。そんなことは私でも知っている」
と述べて怒り出し、
「つくづくと 思ひ暮らして 入相の 鐘を聞くにも 君ぞ恋しき」
と父への追慕の念を詠んだといいます。8歳にしては驚くべき賢い子ですが、残念ながらこの九の宮の名は伝わっておらず、その後どう生きたのかも分かっていません。
 もう一つのエピソードが、隠岐へ流される後醍醐天皇を奪還しようと待ち受けていた児島高徳(こじまたかのり:?~1382)の話です。児島高徳は備前国児島(岡山県倉敷市)を拠点とする武士で、後醍醐天皇を慕う気持ちから、隠岐へと流罪になるのを阻止すべく待ち構えていたのです。
 しかし護送ルートが山陽道から山陰道へ変更されたこともあって、児島率いる軍勢は天皇の行列に行き合うことはできませんでした。
 児島は「自分一人でも、志だけでも伝えたい」と考え、一人で院庄(岡山県津山市)の天皇の寝所へ行き、桜の木に
「天、勾践を冗らにすることなかれ。時に范蠡なきにあらず」
(天は勾践を見捨てることはない。范蠡のような忠臣が現れるはずだ)
と書きつけました。かつて中国春秋時代の越の王・勾践(こうせん:?~B.C.464)が呉に敗北して捕らわれの身となったが、臣下の范蠡(はんれい)が決起して呉に勝利したという故事を踏まえたものでした。
 翌朝この書き付けが発見された際、警護の武士たちには意味が分かりませんでしたが、後醍醐天皇は一人微笑んだといいます。
 その後、後醍醐天皇は隠岐の西ノ島に渡りました。黒木御所が建設され、天皇はそこで1年弱を過ごすこととなります。

津山市郷土博物館の前にある児島高徳像。2026年8月8日撮影。

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