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日本人の物語01618【室町/東国/長尾景春の乱】境根原の戦い

長尾景春の乱と言いながら、それと同時並行で道灌は享徳の乱の敵(千葉氏)とも戦っています。忙しいですね。

 成氏から敵対しない旨の言質を取った道灌は、「では景春だけを討とう」ということで、文明10(1478)年7月18日、成田の陣に攻め込みました。景春はなすすべもなく敗退し、鉢形城(埼玉県寄居町)に逃げ込みましたが、そこも陥落し、かなり奥地にある日野城(埼玉県秩父市)まで退却しました。
 鉢形城は堅固な名城だったため、また景春に利用されると厄介だと思ったのでしょう。道灌の進言により、山内上杉顕定が白井城に代わって鉢形城に在陣するようになりました。
 景春敗退を見届けた成氏は、7月23日に古河へと戻っていきました。切り捨てた尻尾には興味がなかったのでしょう。
 さて、道灌が次に目をつけたのは、停戦協定に反対する勢力・千葉氏でした。前述のとおり、千葉家は
・古河公方に味方する下総千葉(輔胤・孝胤父子) @臼井城(千葉県佐倉市)
・上杉方に味方する武蔵千葉(実胤・自胤兄弟) @石浜城(東京都台東区又は荒川区)
に分裂しており、下総千葉氏は停戦協定に従わず軍事行動を続けていました。
 道灌は下総千葉氏を討伐したい旨、それも成氏の命令という形での討伐にしたい旨を成氏に申し向け、了承を得ました。つまり成氏の命で成氏家臣の千葉孝胤を討伐するわけです。孝胤は成氏の了解を得て戦闘を継続していたのか、成氏の了解なしに独自の行動をとっていたのか不明ですが、もし前者だとしたら尻尾切りされた孝胤はあまりに哀れです。
 しかも、この後の千葉氏との戦いで、成氏が配下の安保氏泰(あぼうじやす)に発出した感状が現存しています。なんと道灌軍の中に、成氏の派遣した部隊もいたようなのです。つまり千葉孝胤は、主君たる成氏が送り込んだ兵に攻め込まれたのです。
 ここから道灌による千葉退治の詳細を見ていきましょう。
 11月に道灌は千葉方の前ヶ崎城(千葉県流山市)を攻略し、12月には国府台(千葉県市川市)に布陣しました。
 そして12月10日に境根原(千葉県柏市)で大合戦が起こります。ここでも千葉自胤を味方につけた道灌が孝胤を破り、孝胤を臼井城へと敗走させました。
 年が明けて文明11(1479)年1月18日、道灌は臼井城を攻撃しますがなかなか落とせません。道灌は軍勢を分けて、弟資忠と千葉自胤を臼井城攻撃のため残し、自らは房総半島を南下して
・長南城(千葉県長南町)の真里谷武田信勝(まりやつたけだのぶかつ:?~1523)
・真里谷城(千葉県木更津市)の真里谷武田信興(まりやつたけだのぶおき:1433~1511)
・飯沼城(千葉県銚子市)の海上師胤(うなかみもろたね)
の攻撃にかかりました。これは半年かかり、7月5日にやっと降伏させることができました。

もうWikipediaにも出てこないようなマイナーな人物ばかりなのですが、海上師胤は「胤」の字が含まれている以上、多分千葉一族の出身なのでしょうね。

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