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日本人の物語00628【鎌倉前期】慈円と愚管抄

 後鳥羽上皇が兵を起こそうと画策し始めたのはいつなのか、はっきりと分かってはいませんが、承久2(1220)年時点では決意を固めていたように思われます。
 権力志向の強い後鳥羽上皇が、鎌倉幕府に東国を牛耳られている状況に不満を感じて、実朝を手なづけることで幕府の勢いを削ごうとしていたことは既に述べました。それを敏感に察知した何者か(北条又は三浦)が実朝を暗殺したことで、後鳥羽上皇の作戦は失敗に終わります。焦った後鳥羽上皇は、やむなく戦によって幕府を亡き者にしようと考え始めます。
 そんな後鳥羽上皇を諫めようとしたのが天台座主の慈円です。慈円は藤原忠通の子で、九条兼実の弟に当たります。百人一首に
「おほけなく 浮世の民を おほふかな わが立つそまに 墨染の袖」
が入選していることから、歌人としても知られています。
 慈円は歴史書『愚管抄』を執筆しました。その目的はおそらく、後鳥羽上皇に挙兵を諦めさせるためでしょう。
 『愚管抄』は初代神武天皇から承久2(1220)年までの歴史を綴ったもので、一人の人間が記した通史としては日本初のものです。ひたすら「歴史は道理によって推移していくものだ」という一貫した思想をもとに作られており、様々な出来事に道理に即した原因があると書かれています。
 もちろん「道理」といっても、慈円は摂関家の人間ですから、やたらと摂関政治を理想形とし、藤原氏が有利になるような「道理」を押し付けてくる傾向があります。天孫降臨の際に天孫ニニギにはアメノコヤネ(藤原氏の祖先)が同道していたことを書き起こし、
「だから天皇には側近として藤原の力が必要なのだ」
と主張するといった具合です。
 慈円によると、「天皇が世を治め、藤原が補佐する」という日本政治の理想形は平安中期に摂関政治として結実しましたが、その後、藤原氏の内紛(父・忠実と子・忠通の対立)や道理に合わない院政が始まったことで瓦解し、武士に主導権を奪われてしまいました。武士が主導権を握った原因は、院政期の為政者たちが意見対立を戦闘によって解決しようという愚を犯したからであって、これを正常に復するために再び武力を用いようとするのも、また愚策である……と慈円は述べています。
 慈円の書いた愚管抄を後鳥羽上皇は読んだのかどうか、残念ながら記録されていませんが、いずれにせよ慈円の思いは伝わりませんでした。後鳥羽上皇の幕府への敵意はエスカレートし、承久3(1221)年には遂に兵を挙げてしまうのです。

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