日本人の物語01136【南北朝後期】畠山討伐 降伏と逃亡
基氏の提案は結構ぬるいですよね。それほどに戦乱を避けたいという思いが強かったのかもしれません。
修善寺城に立て籠もる畠山国清は、兵糧も尽きた上に逃亡する手段もなく、もはや討ち死にかと覚悟していました。そこに基氏からの使者がやって来て、
「これまでの過ちを悔いるならば、出家して降参するがよい」
との連絡がありました。しかも国清自身が出家して引退すれば、弟の義深については伊豆国の守護職に任命してもよいというのです。
この寛大な申し出に国清は飛びつきました。正平17/康安2(1362)年9月10日、降伏する旨を通知した国清は、弟の義深とともに箱根の基氏のもとに出向きました。
基氏は国清・義深兄弟に酒を勧め、宴は大いに盛り上がりました。
ところが2、3日経ったところで稲生平次(いのうへいじ)という男がやって来て、国清に
「基氏のいう『降参すれば許す』というのは嘘ですよ。明日にでもご兄弟を討とうと準備していると聞きました。今夜どこかへお逃げになるのがよいでしょう」
と告げました。
この稲生平次の忠告が事実なのかどうなのか、太平記は口が重く最後まで分かりません。ただ基氏は叔父の直義を手本とした政治を志していましたから(01129回参照)、騙し討ちのような真似はしない人物だと思われます。
ともかく稲生の忠告を聞いた国清はすぐに箱根を脱出し、遊行寺(神奈川県藤沢市)へ向かいました。さらにそこから、遊行寺の僧が用意してくれた馬を使って京へと向かいます。
一方、義深は兄に完全に放置されたまま箱根にいました。ひどい話です。義深は兄の逃亡を知って驚き、結城直光(ゆうきなおみつ:1330~1395)の陣屋に行って、
「どうにか私を逃がしていただきたい」
と頼み込みました。
直光はひどく困惑しつつも、武士としてかくも頼まれれば捨て置けないということで、長い唐櫃の底に穴を空け、その櫃の中に義深を入れて使用人に担がせて、遊行寺へと運ばせたのでした。
畠山家家臣の遊佐性阿(ゆさせいあ)は、箱根の陣にいて主人が2人とも逃亡したことを当然知っていましたが、それを察知されないよう人と囲碁や双六で遊んだり、茶を飲んだりしてさりげない様子を演じ続けました。やがて畠山兄弟の逃亡が露見すると箱根の陣屋から逃亡し、湯本まで来たところで行き会う人々に怪しまれ、もはや逃げられないと観念して自刃しました。
この後も、遊佐家は畠山家の有力家臣として歴史上に何度か登場することとなります。
