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日本人の物語01220【南北朝最末期】小田孝朝の乱

 小田孝朝本人がいないのに「小田孝朝の乱」とはこれいかに。

 元中4/至徳4(1387)年3月9日。義満は鷹司第で蹴鞠を楽しみましたが、これに同席していた近衛道嗣が蹴鞠の直後、病に倒れました。翌週には死去します。
 三条実冬は日記に
「道嗣は義満に接近したことで財産を得たが、その代わりに心労で健康を損ねたのだろう」
と記しています。事実、義満の逆鱗に触れると家を失うおそれもあるため、接するには細心の注意を要するのでしょう。
 閏5月4日には島津氏久が59歳で死去し、了俊の南九州鎮圧にようやく光が見えてきました。
 そして東国では小山若犬丸の乱の続きとなる戦が勃発します。5月13日、古河城主・野田等忠(のだひとただ)が若犬丸の乱の残党を捕らえ、鎌倉まで護送してきました。その囚人の自白によると、常陸小田城(茨城県つくば市)の城主・小田孝朝(おだたかとも:1337~1414)が小山若犬丸をかくまっているというのです。これが小田孝朝の乱の始まりです。
 小田孝朝はこのときちょうど鎌倉に出仕しているところだったので、6月13日、氏満の命により孝朝は拘束されてしまいます。主の逮捕を知った小田家臣の信太氏・岩間氏らは衝撃を受け、小田城で戦の準備を始めました。
 7月19日、氏満は上杉朝宗(うえすぎともむね:1337~1414)を大将とする小田討伐軍を送り出しました。8月10日から小田城攻めが始まり、小田城が陥落すると落ち延びた家臣らは男体山城(現在の難台山:茨城県笠間市・石岡市)に立て籠もりました。この反乱は、孝朝が参加していないのに「小田孝朝の乱」と呼ばれています。
 この男体山城の攻防は半年以上も続き、翌元中5/嘉慶2(1388)年5月18日にようやく落城しました。結局、小山若犬丸が匿われていたかどうかは不明のままでした。
 この戦いは、小田氏が本当に若犬丸を匿っていたとの説と、単に鎌倉公方が小田家の所領を召し上げるために難癖をつけて起こした事件との説があります。そうだとしたら、若犬丸の名は鎌倉公方によっていいように使われただけということです。
 鎌倉で捕らわれたままの小田孝朝の処分について、8月に将軍義満から氏満に対して赦免せよとの命令がありました。孝朝は新千載和歌集、新拾遺和歌集に選ばれるほど和歌に長けた人物であったため、義満がその文化的素養を惜しんだのではないかといわれています。あるいは、鎌倉府の一方的な勢力拡大を義満が嫌ったのかもしれません。
 常陸の名家・小田家はその勢力を大幅に減らしたものの、かろうじて家督継承は認められました。小田家はその後も様々な勢力に脅かされながら、戦国時代まで生き延びることとなります。

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