日本人の物語01289【室町/義持期】伊達松犬丸の乱
このあたりから「山内上杉〇〇」「扇谷上杉〇〇」「犬懸上杉〇〇」みたいな名前が次々と出てきます。「やけに苗字が長いなあ」と思われるかもしれませんが、当時は戸籍制度があったわけでもないので、「山内上杉」という苗字があったわけではありません。「上杉憲定」と短く呼ぶか、「山内上杉憲定」と長く呼ぶかは現代人である我々が勝手に決めているのです。
私は「数あるうちのどの種別の上杉氏なのか」がすぐに分かるよう、長く呼ぶのが好きです。
現代に例えていうなら・・・あなたは田中家の人間で、お父さんが30人兄弟で、従兄弟が100人いると思ってください。「実くん」「清くん」「良太くん」といわれても、どれが滋賀の伯父さんの子で、どれが山形の叔父さんの子だったかが分からなくなりそうです。
そこで、苗字に無理やり地名を付けて「滋賀田中実」「山形田中清」「愛媛田中良太」といった呼び名にすると便利です。
山内上杉、扇谷上杉、犬懸上杉というのはそういうものだと思ってください。
ここで鎌倉公方持氏をめぐる関東情勢に目を転じます。
山内上杉憲定が病に倒れ、その又従兄弟に当たる犬懸上杉禅秀が関東管領職を引き継いだことは既に述べました。
上杉氏では山内上杉家こそが本家であり、犬懸上杉家は庶流に過ぎません。しかし禅秀は権力欲旺盛で、本家を乗っ取ろうと画策しています。そして禅秀と結びついた足利満隆が、甥の持氏から鎌倉公方の座を奪おうとしており、鎌倉はキナ臭い雰囲気となっています。
応永19(1412)年12月18日。かねてより病身であった山内上杉憲定が死去し、その家督を長男憲基(のりもと:1392~1418)が継承しました。憲基は弱冠20歳ですから、禅秀や満隆と渡り合うには少々心許ない状況です。
そんな中、陸奥でまたもや反乱が発生しました。陸奥といえば伊達政宗が二度に渡る乱を起こしたところですが、応永20(1413)年9月頃、伊達政宗の孫に当たる伊達松犬丸(だてまついぬまる:後の伊達持宗:1393~1469)が大仏城(おさらぎじょう:福島県福島市)で挙兵したのです。松犬丸は一族郎党を率いて鎌倉府の出先機関である稲村公方満貞及び篠川公方満直を襲撃してきました。
当時15歳の鎌倉公方持氏は深刻な内紛を抱えている状況でしたが、さすがに捨て置けません。持氏は陸奥国の諸大名に鎮圧を指示したらしく、10月21日付けで小峰満政(こみねみつまさ)に対して出陣を命令した文書が現存しています。ちなみに小峰家とは白河結城家の分家筋であり、小峰城(福島県白河市)を拠点とする武士です。
結局、この乱が鎮圧されたのは年末頃でした。二本松城(福島県二本松市)を拠点とする二本松満泰(にほんまつみつやす)らが大仏城を攻め落としたのです。
松犬丸は命からがら逃れましたが、内紛を抱える持氏はこれ以上の追跡と討伐を諦めてしまいました。
その後、松犬丸は許されて幕府方に帰順し、やがて元服式では将軍義持から一字をもらい、「持宗」と名乗るほどになります。それだけでなく、持宗はこれ以降かなり幕府寄りになり、その後発生する様々な戦乱でも一貫して幕府に味方することとなるのです。
鎌倉府に反逆した人物が幕府に重用されるということは、幕府と鎌倉府の緊迫関係を投影しているように思われます。幕府と鎌倉府の対立。鎌倉府内での持氏派と禅秀派の対立。さらには東国内で鎌倉府に反感を持った武士団の存在。こうした爆弾を多数抱えたまま持氏は成長していきます。
山内上杉憲基について「弱冠20歳」と書きましたが、この「弱冠」という言葉、かつては「20歳の男性にのみ使える言葉であって、女性や他の年齢の人には使えない」という考え方が支配的でした。
しかし漢文学者の原田種成氏によると、中国の古典で20代全般に使用している例があるそうで、どうも29歳までは使って良いみたいです。
さらに近年の世相を反映させて、「男女関係なく使用できるようにすべきだ」といった意見もあるようです。
