日本人の物語01436【第一尚氏】志魯・布里の乱
「しろふりのらん」と読むのですが、まるで「しろふり」という人物がいるようで、変な感じです。
景泰元(1450)年。尚巴志の五男である尚金福(しょうきんぷく:1398~1453)が5代国王に即位しました。
尚金福の治世も僅か3年と短いですが、懐機に命じて長虹堤(ちょうこうてい)を作らせたという業績が残っています。貿易港として機能していた浮島と沖縄本島をつなぐ全長1キロメートルもの道路を作らせたのです。
崇禎6(1633)年に琉球を訪れた明の胡靖(こせい)は、
「遠望すれば長虹のごとし」
とその美しさを称えており、そこから「長虹堤」という名がついたようです。
また、江戸時代の浮世絵画家・葛飾北斎は琉球八景として「長虹秋霽(ちょうこうしゅうせい)」という絵を描いています。もっとも、葛飾北斎自身が琉球に行ったはずはなく、その景色を人から聞いて描いたものでしょうが。
この入り江の水深は意外に深く(深いからこそ大型船が出入りでき、貿易に向いているのですが)、波が荒れた日が多かったため工事は難航しました。懐機が神棚を設けて3日間祈り続けると、なんと海水が干上がって海底が見える状態になり、その間に工事を行ったとの伝説があります。伝説の真偽はともあれ、短命な国王が続く中で懐機の存在が政権を安定させていたと思われます。
しかし懐機は長虹堤を完成させた後まもなく亡くなりました。琉球王国が混乱に陥るのはここからです。
景泰4(1453)年4月18日。5代国王・尚金福は在位3年で死去しました。その後継をめぐって大規模な戦乱が発生してしまいます。
次期国王に名乗りを上げたのは、尚金福の子・志魯(しろ:?~1453)でした。ところが尚巴志の六男である布里(ふり:1407?~1453?)が立ちはだかります。つまり甥と叔父の戦いです。
「志魯・布里の乱」と呼ばれるこの戦いについては、詳しい経緯が残っていません。ただ、戦いの中で首里城が炎上したこと、明から賜った国王印が焼けてしまったことが記録されています。
布里が志魯を討ち取ったものの、なぜか布里自身は即位せず、景泰5(1454)年に王位は尚巴志の七男である尚泰久(しょうたいきゅう:1415~1460)に移りました。大規模な戦乱を起こした布里の即位を、群臣たちが認めなかったためでしょうか。布里は乱の後まもなく亡くなったといわれており、南城市内にその墓があります。
権力者が死んだ後で、その子と弟とで戦うというのはよくある話ですね。
