日本人の物語00233【奈良】弓削道鏡失脚*
さて、宇佐八幡宮神託事件の結果、道鏡が天皇位に就くことは避けられました。しかしこの直後、称徳天皇は道鏡の出身地である弓削(大阪府八尾市)に離宮「由義宮(ゆげのみや)」を造営しています。道鏡愛しさのあまり、その出身地を見に行きたいと考えただけなのか、はたまた、道鏡を天皇位に就けることをまだ諦めていないのか、真意はよく分かりません。
ところが、神護景雲4(770)年8月4日、称徳天皇は52歳で崩御し、道鏡は後ろ盾を失うこととなります。
称徳天皇は後世に日本史を代表する大悪女とみなされるようになりました。
鎌倉時代に成立した『古事談』では、称徳天皇の死因について驚くべき記述があります。
「称徳天皇、道鏡の陰、猶不足に思し召されて、山芋を以て陰形を作り、之を用ひしめ給ふ間、折れ籠もると云々。(中略)癒ゆることなく帝崩ず」
現代語訳すると、
「称徳天皇は道鏡の男根に飽き足らず、ヤマイモを男根の形に作り変えて使っていたところ、折れたヤマイモが陰部を腫れふさいだ。それが癒えることなく死んだ」
というのです。
もちろん後世の作り話でしょうが、天皇崩御の様子として、史上最悪の記述だと思います。
道鏡がその後ろ盾を失い、ここからは藤原百川(ふじわらのももかわ:732~779)が実権を握る時代に入ります。藤原百川は宇合の八男です。
宝亀元(770)年。天皇の後継について、吉備真備は文屋大市(ふんやのおおち:704~780)を推薦しました。文屋大市は天武天皇の孫です。当時、臣籍降下して文屋姓を名乗っていました。
しかし、藤原百川は「称徳天皇の遺言があったので披露する」と言って、
「白壁王(しらかべおう:天智天皇の孫:709~782)に譲位する」
という「遺言」を述べたのです。これはあからさまな百川の捏造でした。実際には遺言などなかったのでしょう。
これに呆れ果てた吉備真備は辞職を申し出て、政界を引退しました。
同年8月21日。「道鏡は皇位を狙った反逆者である」との詔が出て、道鏡は下野薬師寺別当(栃木県下野市にある薬師寺の住職)に左遷されることとなりました。当時、下野薬師寺は国内有数の規模の寺院だったとはいえ、太政大臣、法王と来てからの薬師寺別当ですから、これはもうものすごい左遷でしょう。この左遷劇の裏に、百川の意志が働いていたことは疑いありません。
さらに9月6日には、和気広虫と清麻呂の姉弟が平城京に戻されることとなりました。清麻呂は再び朝廷で重用されることになります。
左遷先の下野薬師寺で道鏡は孤独な余生を過ごし、宝亀3(772)年4月に死去することとなります。


