日本人の物語00339【平安中期】紫式部 彰子への出仕*
さて、定子の死から4年経った寛弘2(1005)年頃、道長の働きかけにより、紫式部が彰子に仕え始めます。道長としては、既に『源氏物語』執筆で有名になっていた紫式部を入れることで、彰子サロン(藤壺)の活性化を図ったものとみられます。
ここで、紫式部の生涯についてまとめておきましょう。
紫式部は天元2(979)年頃、下級貴族の藤原為時の娘として産まれました。その為時の邸宅は、現在の盧山寺(京都市上京区)と推定されています。
官職に恵まれなかった為時は、家の隆盛を願ってまだ幼い長男・惟規(のぶのり:974?~1011)に望みを託し、熱心に漢文を教えていました。紫式部はそれを横で聞きながら育ちました。
しかし為時の思いとは裏腹に、惟規がなかなか覚えが悪かった一方、紫式部はすらすらと漢文を覚えていきました。為時は紫式部に
「口惜しう。男子にてもたらぬこそ幸なかりけれ」
(残念だ。男の子でなかったのが不運であった)
と嘆いたといいます。
さて、紫式部は早くに母と姉を亡くし、残された父と兄弟のために主婦業にいそしむこととなりました。これが式部の婚期を遅らせる原因となります。
当時としては結婚適齢期をはるかに過ぎた26歳頃、藤原宣孝(ふじわらののぶたか:?~1001)と結婚して長女をもうけましたが、29歳頃に夫が病死し、未亡人となりました。
紫式部が『源氏物語』の執筆を始めたのは、夫を亡くした直後ではないかと考えられています。小説を書くことで独り身の寂しさを紛らわせようと思ったのかもしれません。この小説が藤原道長の目に留まったと考えられています。
紫式部を気に入った道長は、娘・彰子のもとに宮仕え女房として出仕させます。
『紫式部日記』と『枕草子』を読み比べてみると、2人の宮仕えに対する意識が大いに異なっていることに気づきます。清少納言が得意気に知識をひけらかし、宮仕えを心から楽しんでいるのに対し、紫式部は仕事を本当に嫌がっているように見受けられるのです。先輩女房との人間関係に悩み、周囲との協調を図ることにひたすら苦慮していたようです。
『紫式部日記』にこんな記述があります。
「一という文字をだに書きわたしはべらず。いとてづつにあさましくはべり」
漢字の「一」という文字さえも書かないようにして、無学を装うことで人間関係を保っていたというのです。清少納言と比べてなんと自己抑制の効いた人物でしょう。
宮仕えの中で、紫式部は『源氏物語』を完成させようと奮闘します。

