日本人の物語01520【室町/東国/享徳の乱】東常縁派遣*
以前もお話ししましたが、東北・関東・九州で「胤」の付く人名を見たら千葉氏の一族である可能性が高いです。
このように、千葉家中で起こった足利成氏VS上杉家の代理戦争は、成氏方である馬加康胤の一方的な勝利となりました。慌てた上杉方は、戦況を幕府に報告して援軍を要請します。
幕府で検討した結果、
「千葉家の問題は千葉家に解決させよう」
ということで、千葉一族の東常縁(とうつねより:1401~1484)を送り込むことを決めました。東常縁は美濃篠脇城(岐阜県郡上市)の城主で、千葉家の庶流です。
千葉氏といえば、鎌倉幕府創設メンバーにして源頼朝が父と仰いだ千葉常胤(00463回参照)が有名ですね。JR本千葉駅から徒歩10分のところにある千葉城の前にも騎馬姿の千葉常胤像があり、千葉県の名の由来となった氏族として知られています。その千葉一族が、なぜ岐阜県にいるのか不思議に思われるでしょう。
実は鎌倉幕府創設に大いに貢献した千葉氏は、幕府から恩賞として美濃国山田荘(岐阜県郡上市)や肥前国小城郡(佐賀県小城市)に領地を与えられたのです。そして、千葉家庶流にして東庄(とうのしょう:千葉県東庄町)を領地としていた東氏が、主家から美濃国への下向を命じられ、そのまま土着していたのでした。ちなみに肥前国小城郡に土着した肥前千葉氏については、本稿で既に何度か登場しています。
美濃から東国に派遣された東常縁はさっそく千葉家の内戦に加勢しました。
島城の戦いで自害に追い込まれた千葉胤賢には、
・実胤(さねたね:1442~?)
・自胤(これたね:1446~1494)
という2子がいました。彼ら兄弟は辛くも馬加方の追撃を逃れ、命からがら市川城(千葉県市川市)へと逃れていました。東常縁はこの実胤・自胤兄弟と合流し、主家の仇を討とうと進撃していきます。その勢いはすさまじいものでした。
康正元/享徳4(1455)年11月13日。東常縁はまず、馬加方に制圧されていた千田荘(千葉県多古町)を攻略しました。千田荘を守っていた原胤房はたまらず馬加城へと敗走し、主の馬加康胤と合流しました。
東常縁は敵に暇を与えることなく馬加城まで追撃し、11月24日にこれを見事陥落させました。馬加康胤・原胤房はたまらず更なる奥地である千葉城へと逃れました。
東常縁は武人としてより歌人として有名な人物ですが、実は戦でも大活躍を見せていたのです。
東常縁は高校日本史の教科書で歌人としてのみ登場します。戦で活躍していたとは、本稿執筆のため勉強して初めて知りました。

