日本人の物語01476【室町/西国/大乱前夜】長禄の変 潜入工作
『禁闕の変』と『長禄の変』はセットで記憶に留めていただきたい事件です。
享徳6(1457)年9月28日に「長禄」への改元がありました。
いよいよ長禄の変について語るときが来ました。長禄の変とは一言でいうと、赤松家の遺臣たちが勾玉を奪回して家の再興を許された事件です。
赤松家は満祐を当主とする本宗家が取り潰され、満祐の甥・時勝が密かに播磨国を脱出していました。その時勝の子・政則はこの時点で未だ3歳でしたが(幼名は次郎法師ですが、ややこしいので政則で通します)、赤松家の遺臣たちは幼少の政則を擁立してお家再興の機会を窺っていたのでした。ちなみに分家筋の赤松則尚は嘉吉の乱を生き延びましたが、不法に決起して宗全に滅ぼされています。
赤松再興を目指して行動していた中心人物は石見太郎左衛門(いわみたろうざえもん)という人物でした。石見は内大臣・三条実量(さんじょうさねかず:1415~1484)に奉公し、一生懸命仕えながら再興を訴えましたが、
「いくら良い働きをしても、嘉吉の乱での悪逆を埋め合わせるほどのものではない」
と言われてしまいます。
思い余った石見が、
「もし神爾(勾玉)を奪回したならばどうでしょう」
と尋ねてみると、三条実量は後花園天皇に掛け合い、
「もし神爾が戻ってくるならば赤松赦免は可能である」
との回答を引き出しました。これは恐らく、幕府に一切の相談なく行われたやり取りでしょう。
再興が叶うとの言質をもらった石見は、さっそく赤松遺臣の仲間たちに相談します。ここから活躍するのが小谷与次(こたによしじ)という人物です。小谷は「忠阿弥(ちゅうあみ)」という僧侶になりすまし、後南朝に仕官して1年あまりも真面目に仕えました。十分に警戒心を解いたところで、後南朝の役人たちに
「宮様はどこにおられるのか」
と尋ね、自天王(じてんのう:1440?~1457)と忠義王(ちゅうぎおう:?~1457)という皇族の兄弟がいることを知りました。実に気の長い潜入工作です。
自天王・忠義王は後醍醐天皇の子孫だそうですが、どのような系図なのか全くもって不明です。分かっているのは、
・自天王: 北山(和歌山県北山村又は奈良県下北山村)を拠点に活動し「北山宮」とも呼ばれる
・忠義王: 河野(こうの:奈良県川上村)を拠点に活動し「河野宮」とも呼ばれる
という程度です。
将軍を殺した罪と、勾玉を奪回した功績なら確かに釣り合いそうな気もしますね。
