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日本人の物語01359【室町/義教期】大友孝親・持直の反乱

九州の史跡はほとんど足を運べていません。行ってみたいのですが、交通費がかさむのでなかなか……。

 義教が突き当たったトラブルとは、九州の戦乱でした。当時、豊後国(大分県)を拠点とする大友家がひどいトラブルメーカーだったのです。時間をさかのぼって見ていきましょう。
 応永30(1423)年に当主・大友親著(おおともちかつぐ:?~1426)は、自らの子ではなく従弟の持直(もちなお:?~1445)に家督を譲りました。親著は叔父・親世から家督を引き継いだ経緯があるため、親世の子である持直こそが本家であると考えたようです。
 ところがこの判断に、親著の嫡子・孝親(たかちか)はいきり立ちました。不満をくすぶらせた孝親は応永32(1425)年9月13日に持直を攻撃し、大友家の内紛が始まりました。この内紛を三角畠の乱(さんかくばたけのらん)と呼ぶのですが、戦闘が行われたとされる三角畠という場所が現在のどこに当たるのか分かっていません。恐らくは大分市内と思われます。
 この乱は思わぬ形で収束することとなりました。嫡子の反乱に困った親著は、我が子を説得するべく三角畠に向かったのですが、父子で議論するうちにヒートアップした孝親は、親著に怪我を負わせてしまいます。父を殺したと思い込んだ孝親は、これを恥じて自害しました。
 この孝親自害の話は大分合同新聞社刊『豊後大友物語』に記載されたエピソードであり、どこかに原典があるのでしょうが、いろいろ調べても特定できませんでした。近年創作された可能性もあります。ともあれ、大友持直の家督はこれで揺るぎないものとなりました。
 やっと平和になったと思いきや、大友持直は今度は筑前国の領有をめぐって大内盛見と争いになります。大内盛見は永享元/正長2(1429)年10月に幕府から筑前国代官職に補任されていますから、これに反対する大友持直が反乱軍ということになります。
 この戦乱は思わぬ結果となりました。大友持直は少弐満貞を味方に引き入れ、永享3/正長4(1431)年6月28日に大内盛見を討ち取ったのです。義満にさえも屈しなかった盛見が、よもや大友との戦いで命を落とすとは誰が予想したことでしょう。
 なお、大内家の家督については盛見の甥に当たる持盛(もちもり:1397~1433)が継ぐ方針でほぼ決まっていたのですが、義教が干渉して別の甥・持世(もちよ:1394~1441)が継ぐこととなりました。持世は義教にひどく感謝し、後に嘉吉の乱では身を挺して義教を救おうと奮闘し、命を落とすこととなります。
 こうした経緯もあって、幕府としては九州での大友の乱に対応しながら同時に鎌倉府と対立することは避けたいと考えるようになりました。永享3/正長4(1431)年6月、満済・斯波義淳らは義教に
「使者・二階堂盛秀と対面しましょう」
としきりに薦めます。

大分合同新聞社に問い合わせようかなとも思ったのですが、本にクレームをつけているように思われるのも嫌なので、結局聞けませんでした。

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