日本人の物語00497【平安末期】一ノ谷の戦い 梶原の二度駆け
ここからは、本隊の範頼軍の動きを見ていきましょう。
最初に源氏方の河原太郎・次郎(かわらのたろう・じろう)兄弟が名乗りを上げて攻め込みましたが、簡単に射殺されてしまいます。これを見た梶原景時は
「先駆けするからだ。後続が来るかどうかをよく見た上で先駆けすべきだ」
と戒めました。
ところが、先駆けの功を焦るのは何も河原兄弟だけではありません。景時の次男・景高(かげたか:1165~1200)は、
「もののふの とりつたへたる 梓弓 ひいては人の かへすものかは」
(武士が先祖から伝えられた梓弓は、一度放たれたら返っては来ない。自分もまた、一旦進み出た以上は、引き返すことなどできるものか)
と詠んで、父の指示を聞かずに真っ先に突っ込んでいってしまいました。勇猛というべきか、蛮勇というべきか、いずれにせよ危険な行為です。
景時は仕方なく、長男・景季と三男・景茂(かげもち:1167~1200)とともに景高を助けるため、敵陣に突っ込んでいきます。
敵を斬りながら敵陣を通過し、次男・景高の無事を確認しましたが、今度は長男・景季が行方不明となりました。敵陣の中に取り残されたようです。景時は慌てて引き返し、再び敵陣に突っ込んでいき、長男・景季を助けました。
これは「梶原の二度駆け」として伝説となりました。梶原景時といえば、どちらかというと戦闘そのものよりも作戦立案や後方支援といった面で活躍するイメージの武将ですが、ここでは戦闘で大活躍を見せたのですね。また、冷酷無比でのちに義経を讒訴したことでどうしても悪人のイメージが付きまとう梶原景時ですが、息子の命が危ういとなると冷静な判断を捨ててでも守りに行く、意外に人間らしい一面もあるようです。
このとき父に助けられた長男・景季は、さらなる活躍を見せます。遠目に大将軍らしき武者を見つけて追跡し、矢で射たところ、馬に当たって武者の足が止まりました。大将軍は護衛の兵1騎とともにいたのですが、その兵は主を見捨ててさっさと逃げていきます。景季はこの大将軍らしき武者と組み合い、生け捕りとしたところ、なんとこれが平重衡であることが判明しました。
重衡といえば、清盛の五男にして、南都を焼き討ちした張本人です。景時の二度駆けと重衡生け捕りによって、梶原家の武名は大いに上がったといえます。
