日本人の物語01658【室町/西国/六角征伐】赤松氏復活
戦国時代に詳しい人は、「え、浦上って赤松の家臣なの?」とびっくりされるかもしれませんね。浦上と赤松が犬猿の仲になるのは戦国時代に入った後のことで、この時点ではまだ浦上は赤松の家臣です。
六角征伐に入る前に、他の国々の状況をざっと概観しておきましょう。
山名・赤松戦争はひどく長引き、六角征伐が開始した後も続いていました。
文明17(1485)年2月。赤松家臣の浦上則宗は備前国福岡(岡山県瀬戸内市)で山名氏に敗れました。翌3月にも備前国砥石城(岡山県瀬戸内市)で敗れ、後がない状況に陥ったものの、閏3月28日の蔭木城(場所不明)の戦いで赤松方はようやく勝利をつかむことができました。ところが6月の片島合戦(兵庫県たつの市)では再び敗れ、どうも赤松方が苦戦しています。
しかし、浦上則宗の奮闘によって赤松は徐々に勢力を回復していきました。
文明18(1486)年1月の英賀(あが:兵庫県姫路市)の戦いで、赤松軍が山名政豊を破りました。苦境に陥った山名政豊は書写坂本城(兵庫県姫路市)に籠城します。この城に赤松勢は3月、4月と連続で総攻撃を加え、大打撃を与えました。もはや陥落は目前です。
山名政豊は細川政元に援軍を要請するも断られ、虫の息となりました。
文明19(1487)年3月には、赤松政則は安芸国人・吉川経基(きっかわつねもと:1428~1520)を味方に引き入れ、書写坂本城を陥落させることに成功しました。敗走した山名政豊は播磨国内に潜伏して再起のチャンスを窺います。
山名政豊は赤松に敗れただけでなく、内乱にも苦しめられました。政豊は因幡国を庶流の山名豊時に統治させていたのですが、7月には毛利次郎こと毛利貞元(01632回参照)や矢部定利(やべさだとし)を中心とした国人らが、山名政実(やまなまさざね:?~1489)を守護に擁立して挙兵したのです。これを第二次毛利次郎の乱といいます。この内乱は赤松が山名への嫌がらせとして起こした可能性もあります。
因幡守護・山名豊時と伯耆守護・山名尚之(やまなひさゆき)がこれを鎮圧しますが、赤松氏はこれに対抗して、尚之の従弟に当たる山名元之の子・新九郎(01643回参照)を手懐けて伯耆へ送り込みました。
豊時は9月の徳丸河原(鳥取県八頭町)の戦いで毛利・矢部を破り、11月には私部城(きさいちじょう:鳥取県八頭町)を攻めて毛利貞元を自害に追い込みました。山名政実・矢部定利は矢部館(鳥取県八頭町)に逃れましたが、包囲されて自害しました。
どうにか反乱を早期に鎮圧した山名氏でしたが、まだ謀反が続きます。長享2(1488)年7月18日には但馬国内で反乱が起こり、山名政豊はやむなく播磨国内から退去して但馬に撤退しました。これにより、赤松家は嘉吉の乱で失っていた播磨国を完全に回復したのです。苦節47年、赤松家は完全に復活しました。
延徳元(1489)年1月に赤松に与した山名新九郎は敗れて自刃し、新九郎の叔父の小太郎も没落しました。山名家は赤松と結んだ反乱を辛くも鎮圧したものの、かつての勢いを取り戻すことはできず、これ以降ますます没落を極めることとなります。
応仁の乱が終わった後、戦国時代が始まる前のこの中途半端な時代の歴史は、いまいち人気がありません。全国いろんなところで戦っているんですがね。
