日本人の物語01558【室町/西国/応仁の乱】義視の帰洛と再出奔
10年以上続く応仁の乱の中でも、最も不可解な出来事を取り上げます。
話は京に戻ります。
不利な状況が続く東軍の義政にとって、弟・義視が伊勢に出奔したまま戻らないことは大いに気がかりでした。息子の義尚も未だ3歳に満たず、将軍職を一旦義視に譲らないことには隠居もままなりません。そもそも義視は東軍総大将を解任されてすらおらず、今もなお西軍との戦いの最高責任者の地位にいました。その義視が遠く離れた伊勢にいるのです。
義政は義視に何度も戻ってくるよう薦め、応仁2(1468)年4月には後花園法皇の名で義視召喚の勅を発していましたが、義視はそれでも帰って来ませんでした。
9月になって、義政は義視に「伊勢国の国衙領の半済分を領地として与える」とまで言って、帰洛を要請しました。そこまで言われてはと、義視は重い腰を上げて2千人の供を引き連れて伊勢を出発し、9月7日に近江に入りました。なぜかそこで2週間を過ごし、22日にやっと京に入ります。
ところが、帰洛してすぐ義政に謁見した義視は、「邪徒3人」を除くよう意見具申したことで義政を怒らせてしまいます。3人のうち2人は伊勢貞親・日野勝光と思われますが、残る1人が誰なのかよく分かりません。
確かに、伊勢貞親は「義視が謀反を起こそうとしている」と讒言して失脚したという経緯がありますから、義視にとって天敵です。義視にしてみれば「私と貞親の両方を重用しようとするな。どちらかを選べ」といった思いだったのでしょう。日野勝光も貞親と懇意ですから、同様に敵とみなされたのでしょう。
しかし、この僭越な要求は義政を完全に怒らせてしまいました。義政は激怒して義視を退出させ、義視の後見人だったはずの勝元までもが、義視に
「将軍職の継承は諦めて出家されてはいかがでしょう」
などと薦めるようになりました。
こうして幕府内に義視の居場所は完全になくなりました。11月10日には義視側近の有馬元家が、義政の命で赤松政則に討ち取られてしまいました。西軍のスパイとみなされたためですが、恐らく貞親の讒言によるものと考えられます。これにより義視はさらに身の危険を感じるようになりました。
11月13日、義視は遂に将軍御所から脱出し、比叡山へと出奔しました。その義視に目をつけた西軍は、11月23日、義視に誘いをかけて斯波義廉宅に迎え入れました。宗全たち西軍の諸将は義視を歓迎し、西軍総大将に祀り上げました。
こうして足利義視は、東軍総大将から一転して西軍総大将となってしまったのです。
以前お話ししましたが、「応仁の乱とは、次の将軍を義視にしたい東軍と義尚にしたい西軍との戦いだった」という従来説をとってしまうと、途中で義視が西軍総大将となる理由が説明できなくなってしまいます。やはり応仁の乱の主原因は①畠山家・斯波家の家督争い②細川・山名の政治的主導権争いと理解すべきでしょう。
