日本人の物語01386【室町/義教期】嘉吉の乱 ヒーロー満祐
「嘉吉の乱」という言葉は、将軍義教が殺された事件のみを指すという人もいれば、その後の赤松討伐戦も含むものだという人もいます。私は後者の解釈で、引き続き「嘉吉の乱」と題したままで行きます。
万里小路時房の日記『建内記』は、将軍暗殺直後に広まった噂話を記しています。
まず動機については、
「義教が赤松満祐から播磨守護職を取り上げて、お気に入りの赤松貞村に与えようとしたためらしい」
との噂話があったといいます。赤松貞村は義教の男色の相手として可愛がられていたとの説もあり、いかにもありそうなことですが、真相は定かではありません。いずれにせよ、有力守護の家督継承に次々と介入する義教に対し、危機感を覚えた満祐は思い余って暗殺という挙に出たのでしょう。
そして京の一般市民たちは義教の死を大いに歓迎し、満祐の「義挙」に喝采したようです。
「将軍殺害は人類の滅亡を防ぐために八幡大菩薩が満祐に行わせたものであって、満祐は悪くない」
といった風説が飛び交ったり、洛中の落書にも
「いなかにも 京にも御所の 絶えはてて 公方にこそを かきつ元年」
(関東の公方持氏も京の公方義教もいなくなってしまい、公方を欠いた年だ)
などと「嘉吉」と「欠きつ」をかけた狂歌が書かれたりしました。
惨劇から一夜明けた嘉吉元(1441)年6月25日、幕府は焼け跡から義教の首のない遺体を取り出し、等持院に安置しました。そして7月6日に義教の葬儀が行われ、管領・細川持之がこれを取り仕切ったものの、各大名には参加しないよう呼びかけました。つまり葬儀への参列よりも、満祐討伐を優先せよというわけです。
義教の後継者たる千也茶丸(後の足利義勝)はまだ8歳ですから、赤松満祐討伐令は管領・細川持之が代理で出すこととなりました。その命を受けた赤松貞村が京を出陣したのは7月10日で、細川持常・山名教之(やまなのりゆき:?~1473)が出陣したのは7月11日のこと。将軍が死んでから2週間以上経っているわけで、かなり遅い出発です。
なぜ将軍の仇を討つのにかくも時間がかかるのか、そのヒントも『建内記』の中にあります。7月1日の『建内記』には
「しかるに今、普広院殿(義教)薨御の間、人々恩赦の時分」
(義教が死去したことにより、人々は恩赦を受けられるようになった)
との記載があり、義教の気まぐれで罰を受けた者たちが徐々に復権しているというのです。
つまり、将軍が殺されたというのに、幕閣たちはその仇討ちよりも恩赦を優先させているのです。貞成親王が「管領もグルだったのでは」と疑うのも無理はありません。
なぜ細川持之は、赤松討伐よりも恩赦を優先させているのでしょうか。
守護たちの中には喜んでいる者もいたはずですが、とはいえ罪を犯した者を討伐しないわけにいかないのでしょうね。
