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日本人の物語01547【室町/西国/応仁の乱】大内軍来たる

当初は西軍の方が卑怯な手を使っていましたが、ここに来て東軍も卑怯になって来ました

 東軍も西軍もつい昨年まで仲良くやっていた仲間たちですから、幕府内にも内心では西軍に与する者が当然います。そんな一人であった公人奉行(くにんぶぎょう:人事を担当する官僚)の飯尾為数(いのおためかず:?~1467)が、応仁元(1467)年6月11日、義視・勝元らに誅殺されました。ただ、飯尾の西軍への内通が真実かどうかは分かりません。
 こうした内紛は、往々にして不利な状況にある側で起こるものです。東軍は一見優位に立っているように見えて、実際には追い込まれていたのかもしれません。
 事実、6月13日に細川勝元自ら兵を率いて敵の事実上の大将・山名宗全の屋敷を攻めましたが、陥落させることはできず、翌14日には逆に西軍の朝倉孝景が東軍の武田信賢軍を攻め破りました。
 一転して不利な状況となった勝元は、ゲリラ戦に打って出ます。6月21日、勝元は宗全邸の近所の西軍方の寺院の僧に
「寺を焼け。その見返りに、後日三万疋を与える」
などと持ち掛け、僧たちにその準備に当たらせました。これを知った宗全は、計画に乗った僧11人を斬首に処しました。
 これまでも南北朝の動乱の中でゲリラ戦が行われたことはありましたが、反乱軍を鎮圧するために幕府側からゲリラ戦を仕掛けるとは前代未聞です。(近年、寛正の土一揆を鎮圧するために幕府方がゲリラ戦を仕掛けたとの説が出てきましたが、まだ有力視されている説ではないようです。)
 勝元のゲリラ作戦に怒った西軍は、6月22日、鹿苑寺の金堂以下を破却して、そこに布陣しました。幕府中興の祖である義満が建てた鹿苑寺を壊すとは、幕府の権威を恐れぬ所業です。
 6月25日から東軍による斯波義廉邸への攻撃が始まりました。この攻撃は断続的に続き、7月25日まで続きましたが、落とすことができません。というのも、斯波義廉方にはあの勇将・朝倉孝景がいるのです。朝倉孝景は東軍側が斯波義廉降伏の条件として首を要求したほどの大物であり、西軍の最強武将でした。
 東軍がなかなか勝てずやきもきしている中、遂に恐れていた知らせがやって来ました。7月20日、3万人近い大内政弘の兵が兵庫港に入港してきたのです。彼らは8月3日には兵庫を出発し、京に向かい始めました。
 勝元は摂津守護代・秋庭元明(あきばもとあき:?~1475)や赤松家臣・浦上則宗(うらがみのりむね:1429~1502)に命じて、猪名野(兵庫県伊丹市)で大内軍と戦わせましたが、簡単に蹴散らされました。それどころか、敗戦を知った摂津国人・池田充正や三宅氏・茨木氏は西軍に寝返ってしまいます。
 大内軍の到着により、一転して西軍が有利な状況となりました。

勝元は手段を選ばなくなりましたね。反乱鎮圧のために官軍がゲリラ戦を行うというのは日本の歴史の中でもなかなか見ない出来事です。

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