日本人の物語00664【鎌倉中期】宝治合戦 戦闘回避への努力
前述のとおり、頼経の旗印に集まった御家人の代表格は、名越氏と三浦氏でした。絶大な権力を手にしていた三浦義村は既に死去していましたが、北条にとって義村の長男・泰村と次男・光村は強敵であり、いつ戦闘が起きてもおかしくない状況です。
寛元4(1246)年9月1日。時頼は三浦泰村を招き、
「六波羅探題を務める大叔父・極楽寺重時を鎌倉に呼び戻し、政務を補佐いただこうと思うが、どうか」
と相談しました。泰村がこれに反対したため、この人事は棚上げとなりました。
時頼は敵対的な三浦を除こうとするのではなく、あくまでも取り込もうと動いているように見えます。重時を呼び戻すなどわざわざ三浦に諮らずとも勝手にやってしまえばよいのに、あえて相談したのは三浦との融和を図るためでしょう。
しかし、時頼の腐心をよそに、三浦との対決は避けられない状況となってきます。北条家と懇意な安達家が、勝手に三浦との戦闘を準備し始めるのです。
宝治元(1247)年4月11日。安達景盛が、子の義景と孫の泰盛(やすもり:1231~1285)を呼びつけ、
「三浦一族は傍若無人の振る舞いで勢いを増している。我ら安達一族はこのままでは三浦に遠く及ばないぞ。こんな大事なときに合戦の準備を怠るとは何事か」
と叱責しました。さっさと戦でカタをつけてしまおうというのです。
慌てた時頼はなおも三浦との衝突を避けようと、5月6日に泰村の次男・駒石丸(こまいしまる)を養子に迎え、融和を図りました。
5月13日。檜皮姫が死去したことを受け、時頼は喪に服すため、三浦泰村の屋敷に寄宿することとなりました。当時、服喪期間に自宅を出て縁者の家に身を寄せることはよくあることでしたが、ここで時頼は安達邸ではなくあえて三浦邸を選んだのです。殺される危険を冒してでも長時間同じ館でともに過ごすことで、誤解も解け、戦を避けられるだろうと考えたのでしょう。
しかし、時頼の腐心をよそに、三浦との対立の火種はやみません。5月21日、鶴岡八幡宮の社頭に
「三浦泰村は将軍家の命に背いて勝手な事を繰り返しているので、近いうちに討伐されるだろう」
と書かれた高札が立てられたのです。これはどうしても三浦を討伐したい安達景盛の行動と考えられます。
