日本人の物語01681【幕間】戦国大名とは何か
珍しく学術的な話に紙面を割いてみました。
いよいよ「戦国大名」が登場するわけですが、彼らは一体何者で、これまで登場してきた「守護大名」とは何が違うのかを説明しておきましょう。
守護大名と戦国大名の違いについては、歴史学者・杉山博教授が
「守護大名は、荘園体制のヴェールの彼方に農民を見た。それに対して戦国大名は農民そのものを把握しようとした」
という面白い説明をしています。
土地制度を振り返っていくと、かつては中央政権から派遣された「〇〇守」などの国司が、その国の年貢を取り立てて京に納めていました。しかし国司の年貢徴収権が及ばない「荘園」と呼ばれる私有地が大量に現れ、国司の権限は弱まっていきました。農地の収穫物は国司ではなく荘園領主が手にするようになったのです。
ところが鎌倉時代以降、幕府が派遣した「守護」が現れ、その武力でもって徐々に荘園領主から権力を奪っていきました。特に室町時代以降は「半済令」という法令が施行され、守護が荘園領主から収穫物を半分奪うことが後付けで正当化されました。
ただし、守護たちは荘園制度そのものを否定したわけではありません。守護たちは領国内の「在地領主」と呼ばれる農民たちを指揮する中間管理職たちを束ね、彼らを通して年貢を徴収しているのですが、在地領主は収穫物の半分を京などに住む荘園領主(公家、寺院等)に納めているわけですから、言わば守護と荘園領主の両方に仕える身でした。
さらに、荘園によっては「守護不入」という特権を持つものもありました。守護といえども、有力寺院や有力公家などが保有する荘園には立ち入ることができなかったのです。
一方、戦国時代が始まると、もはや京と地方のつながりは途絶え、京に居住する公家や寺院が保有していたはずの地方の荘園は、ほぼ全てその国の守護に属するようになりました。そもそも日本全国がバトルロイヤル状態に陥っている中、地方から京へ安全に年貢を運搬する手段は失われていたでしょう。
こうして戦国大名は、自国の農地と農民全てを支配するようになりました。その手段として挙げられるのが、①検地と②分国法です。
検地とは、戦国大名が自国の農地を全て測量し、どの農地でどの程度の収穫がなされるかを見込むことです。分国法とは、戦国大名が自国内で施行する法令を自ら制定したものです。
つまり戦国時代とは、中央政権が崩壊したために地方自治が究極まで推し進められた時代と評価できるでしょう。戦国大名はそれだけの権限を持っていたのです。
こういう話は高校日本史でも習ったのですが、その頃の私は歴史上の英雄にしか興味がなくて話半分に聞いていた気がします。
