日本人の物語00308【平安中期】63代冷泉天皇
天徳4(960)年5月4日。孫である皇太子・憲平親王の即位を見ることなく藤原師輔は死去しました。兄の実頼よりも早世でした。
この後は師輔の3人の子が争う時代が到来することになります。
・長男 藤原伊尹(ふじわらのこれただ:924~972)
・次男 藤原兼通(ふじわらのかねみち:925~977)
・三男 藤原兼家(ふじわらのかねいえ:929~990)
ところがここで、これら3兄弟に対抗し得る有力貴族が登場します。源高明(みなもとのたかあきら:914~983)という人物で、醍醐天皇の十男に当たります。
源高明が他の有力氏族と異なっていたのは、藤原氏のアンチとして活動したわけではなく、逆に藤原氏に取り入ることで権力を手中に収めようとしたことでした。
源高明は藤原師輔の娘を娶り、師輔やその娘に当たる中宮安子と信頼関係を構築し、師輔の庇護のもとで順調に昇進を重ねていました。応和4(964)年の安子の死は手痛かったものの、康保3(966)年には源高明は娘を為平親王に嫁がせ、師輔と関係を結びました。
為平親王といえば、師輔の娘・安子が村上天皇に嫁いで産んだ子の一人です。つまり、師輔の血を引く為平親王の権威を着ることで、源高明自身もまた権力を得ようとしたのです。
このような源高明の動向を藤原3兄弟は激しく警戒しました。3兄弟は、安子の産んだ3人(憲平・為平・守平)のうち「為平だけはもはや天皇にしてはならぬ」とさえ考えたようです。
そんな中、康保4(967)年5月25日に村上天皇が崩御しました。
村上天皇は摂政も関白も置かなかったことから、その治世が後に「天暦の治」と呼ばれ、理想的な天皇親政の時代だったと称えられるようになりました。しかし実際には村上天皇は、藤原実頼・師輔兄弟(特に師輔)の影響を多分に受けていたと考えられます。「天暦の治」は、決して天皇親政といえるほどのものではなかったでしょう。
村上天皇崩御により、皇太子の憲平親王が即位しました。冷泉天皇です。
冷泉天皇即位に伴い、皇太子となったのは守平親王でした。年上の為平親王を差し置いて立太子したことになります。かわいそうに、為平親王は藤原師輔の血を引く3人のうちの1人でありながら、源高明の娘を娶ったばっかりに藤原一族から忌避されてしまったのです。
一方、関白には藤原実頼が、左大臣には源高明が、それぞれ任命されました。
源高明は、息のかかった為平親王を立太子することには失敗したものの、実頼に次ぐ政権ナンバー2たる左大臣の座に就くほどの地位にあったわけですから、師輔の子ら3兄弟が警戒したのも無理からぬことと思われます。
