日本人の物語00787【鎌倉末期】六波羅探題滅亡 仲時都落ち
六波羅探題には5万騎の兵を擁していたはずですが、敗戦を知った兵たちは次々と逃亡し、もはや滅亡を待つのみとなりました。六波羅探題北方の普恩寺仲時は、光厳天皇を始めとする持明院統の皇族と仲間の兵たちを連れて鎌倉へ逃げることを決めました。
仲時は妻に、
「敵が道を塞いでいるらしく、無事に鎌倉までたどり着けるか分からない。そなたは女の身であるし、子の松寿丸(しょうじゅまる:後の普恩寺友時:?~1339)もまた誰の子か悟らない限り、殺されることはあるまい。今のうちに逃げるがよい」
と語りかけました。しかし妻は仲時の袖をとって泣きすがり、仲時はなかなか出発できません。そうこうしているうちに、六波羅探題南方の北条時益(ほうじょうときます:?~1333)がやって来て、
「帝はもう出発されましたぞ」
と仲時を急かしました。仲時は妻を引き離して馬に飛び乗り、鎌倉目指して旅立っていきました。これに同道したのは、持明院統の後伏見上皇、花園上皇、光厳天皇です。
しかしこの一行を待っていたのは、あまりに悲惨な運命でした。早くも東山(京都市東山区)で落武者狩りの野武士たちに囲まれてしまったのです。
野武士とは職業武士ではなく、平時は百姓として生活していながら、戦が起こったときだけ武器を手に戦う人々のことです。幕府方と後醍醐天皇方の戦に決着がついたのを聞き、今こそ敗者から略奪しようと待ち構えていたのでしょう。幕府を倒そうという意図があるわけではなく、生活のため金品を欲しているだけの名もなき人々です。
一行は野武士から次々と矢を射かけられ、北条時益は首の骨を射抜かれて即死しました。六波羅探題ナンバー2が早くも戦死するとは、要人警護に当たる兵の数が全く足りていなかったということでしょう。
一同は矢の下を駆け抜け、ひたすら逃げるしかありませんでした。
次は逢坂の関(京都府と滋賀県の境)で、再び野武士たちが待ち受けていました。また矢が雨のように降りかかります。
ここで、あってはならないことが起きてしまいます。誰が放ったとも分からない矢が、何と光厳天皇の左肘に当たり負傷させてしまったのです。陶山義尚が慌ててその矢を抜いて傷の手当てをしましたが、名もなき野武士の集団が天皇を傷つけるとは前代未聞の出来事でした。
