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日本人の物語01275【室町/義満期】足利義嗣登場

義嗣(よしつぐ)の「嗣」の字をどう説明するかが難しいです。「将軍継嗣問題のシです」と言っても「しょうぐんけいしもんだい」なんて単語は余程の時代劇好きでなければ知らないですよね。「嗣永桃子のツグです」なら若い人には通じるかもですが、年配の人には難しそうです。

 一般に、4代将軍義持は父・義満と不仲であったといわれています。後述するように、晩年の義満は義持の弟・義嗣ばかりをかわいがり、義持に対して冷淡だったのです。
 応永13(1406)年3月28日、義満と義持の父子確執の原因となったかもしれない事件が起こります。義持が側近の山科教冬(やましなのりふゆ:?~1409)に対して何らかの理由で癇癪を起こし、それを聞いた義満が義持を激しく叱責したのです。その叱責の激しさは、義持が罰を恐れて裏松重光の屋敷に逃げ込むほどのものでした。
 裏松重光から義満への取りなしがなされ、結局
「義持が教冬を赦免して引見する」
という形式をとることで落着しました。これが義満・義持父子の関係悪化を示す最初の記録です。
 とはいえ、義満は義持を廃嫡して将軍職を取り上げることまで考えていたとは思えません。というのも、翌応永14(1407)年7月19日に義持の右大将拝賀が行われた際は、義満の右大将拝賀の際(殿上人37人の前駈と公卿21人の扈従)を上回る殿上人47人の前駈と公卿23人の扈従が得られました。もちろん義満の意向あってこそ、この人数なのでしょう。
 義持の前途に暗雲が立ち込めてきたのは、義持の8歳年下の弟・義嗣が現れてからです。
 義持が将軍職を継ぐに当たっては、後継者争いを防ぐため義持の弟たちは皆出家することを見込んで寺院に預けられていました。義嗣もまた、幼年期のうちに梶井門跡に入室させられ、「鶴若丸」と名付けられていました。
 応永15(1408)年2月頃、鶴若丸は梶井門跡に連れられ、義満に謁見しました。父子とはいえ、ほぼ初対面だったと思われます。義満は初めて会った14歳の子に魅せられ、いたく気に入り、突然梶井門跡から取り返して自ら養育することを決めました。
 2月27日、義満は義嗣を連れて内裏に参上し、清涼殿に昇りました。
 周知のとおり、昇殿できるのは「三位以上又は参議以上」と決まっており、それ以外の者に昇殿を許すには勅許が必要でした。しかし義満は強引に元服前の鶴若丸を昇殿させ、その日のうちに従五位下の位階と「義嗣」という諱を与えました。ちなみに元服前の童の姿で清涼殿に昇ることは「童殿上」と呼ばれ、摂関家などの一部の公家にしか許されていません。
 義満は鶴若丸をなぜ引き取ったのか、どのように育成しようとしたのか、そして義持との担当の棲み分けをどう設定しようと考えたのか、今もって不明なのですが、とにかくこのときから義満の異常ともいえる義嗣びいきが始まりました。その昇進の勢いは、平清盛や足利義満をゆうに超え、早すぎることで話題になった源実朝をも超えるものでした。

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