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日本人の物語01181【南北朝末期】大宰府陥落

古代~中世に置かれた役所は「大宰府(点なし)」で、現在の地名は「太宰府(点あり)」です。ややこしいですね。

 文中元/応安5(1372)年4月から始まった大宰府包囲戦は、幕府方(今川方)が有利に戦いを進めていきました。
 8月4日。今川仲秋が酒見城(福岡県大川市)の菊池武安(きくちたけやす)を破りました。武安は武光の甥に当たります。
 今川了俊の勢いも止まりません。8月10日には天拝山城(福岡県筑紫野市)を陥落させ、翌11日には有智山城(福岡県太宰府市)を陥落。そして翌12日には遂に大宰府を陥落させました。懐良親王と菊池武光は筑後国高良山(福岡県久留米市)に逃亡していきました。
 このように了俊は、着任から短期間で北九州を制圧しましたが、この後南九州ではひどく苦戦することになります。
 大宰府陥落を見届けて、了俊に協力していた大内弘世・義弘父子は山口へと帰国していきました。一段落ついたから領国に帰りたいというだけの話なのか、はたまた了俊と対立が生じたのかは分かりません。いずれにせよ、力のある味方を失った了俊は、これ以降勢いを落としていきます。
 この頃、京の義満・頼之政権もまた壁にぶつかっていたようです。9月26日、細川頼之が
「辞職して四国に隠遁する」
と申し出て、義満の説得により撤回したという一幕があったのです。頼之の辞意表明は二度目です。
 具体的に何があったのか分かりませんが、アンチ頼之である斯波・渋川派との政争が激化してきたのでしょう。義満は一貫して頼之を信頼していましたから、わざと一芝居打って、将軍は頼之を必要としている旨を諸大名に発信したかったのかもしれません。
 そういえば『塵塚物語』と『細川頼之記』には、この前年の8月15日の月見の宴における次のような印象的なエピソードが紹介されています。
・宴のさなか、頼之が義満に何らかの進言を行ったところ、義満は怒って頼之を罷免すると言い出し、頼之は数日の謹慎を経てようやく許された。これにより、諸大名は将軍義満を恐れるようになった。
・ところがこの謹慎劇は、義満の権威を高めるために頼之が考えた芝居であった。義満は頼之の提案に乗って芝居を打ったのであるが、義満はますます頼之を信頼するようになった。
 つまり義満と頼之の絆はこれほどまでに強いのです。そんな義満でしたから、頼之アンチが増えてきた現状を危ぶみ、今度は自分が頼之を救うために一芝居打ったのかもしれません。

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