日本人の物語00782【鎌倉末期】千種の逃亡・児島の活躍
宗良・千種軍と赤松軍は、目と鼻の先にいるわけですから、京を攻略するに当たってお互い協力すればよいものを、千種忠顕は手柄を独り占めにしたい思いから、赤松には一切連絡することなく、元弘3/正慶2(1333)年4月8日に六波羅に攻めかかりました。
この日の攻撃は、千種忠顕の世間での評判を大いに落とす結果となりました。というのも、4月8日といえば当時の人々にとって誰もが知る釈迦の生誕の日であり、多くの寺で法要が行われる日だったのです。敵味方関係なく仏に祈りを捧げ、静かに暮らすべき日であるのに、なぜそんな日を選んで攻めかかったのかと人々は憤ったのです。
千種軍は大路ごとに千騎ずつの兵を差し向けて攻略しようとしますが、六波羅方は大路ごとに射手を配置し、遠くから矢を射かけて千種軍を翻弄させます。
敗北した千種忠顕は、自軍にいた児島高徳に撤退を相談しますが、児島は
「退くべきでないときに退き、攻めるべきときに攻めなかったのは大将の責任です」
とひどく厳しい言葉を投げかけました。さらに児島は
「敵は夜襲を仕掛けるかもしれないので、私は七条の橋詰で警備に当たります」
と言って七条へと進んでいきました。
児島が残って味方を逃がすために働いているというのに、千種忠顕はその間に勝手に逃亡して行きました。怒った児島は
「こんな大将はどこかの堀へでも落ちて死ぬがよい」
と愚痴を言いながらも、どうにか無事に味方を逃がすことに成功したのでした。
このように、太平記は千種忠顕をこき下ろしながら、児島高徳を高く評価しています。大日本帝国下においても、児島高徳は後醍醐天皇に仕える忠臣として高い評価を受け、道徳の教科書などで大きく取り上げられました。
ただ、太平記では非常に影響力のある武士として登場する児島高徳が、なぜか公家の日記や土地の安堵状に一切登場しません。太平記の作者が作り出した架空の人物とする説も有力視されています。
昭和初期に皇国史観に基づいた歴史学を隆盛させた平泉澄というイデオローグがいるのですが(00642回参照)、その平泉は戦後に子供向けに著した『物語日本史』という著書の前書きで、
「最近の子供は児島高徳さえも知らない」
と嘆いています。歴史学が道徳と同一視されていた時代に重要人物とされていた児島高徳は、戦後は一転して誰も知らない状態となったのです。
