日本人の物語00310【平安中期】64代円融天皇
安和2(969)年8月13日。冷泉天皇が譲位し、弟の守平親王が10歳6ヶ月で即位しました。円融天皇です。これにより、69歳の藤原実頼が摂政に就任しました。師輔の子の3兄弟からすると、伯父・実頼に最後の花道を譲ってあげたということでしょう。
円融天皇即位を受けて、冷泉天皇と懐子の子である師貞親王が立太子しました。ということは、3兄弟のうち長男・伊尹が外祖父に内定したということです。
翌安和3(970)年5月18日に藤原実頼が死去しました。これにより伊尹が摂政に就任します。あとは、孫の即位を待てば伊尹は最高の権力を手にすることができるはずでした。
ところがその伊尹は、天禄3(972)年11月1日、孫・師貞親王の即位を見ることなく死去してしまいます。摂政就任期間はわずか2年でした。
伊尹の死により、皇太子・師貞親王の即位は、誰も特段望まないものになっていきました。
さて、次の関白職を次男・兼通と三男・兼家が争うことになりました。この兼通と兼家は犬猿の仲で有名でした。次男・兼通の方が年長であるものの、三男・兼家の方が位階が高かったため、円融天皇はどちらを関白に任命するか迷いに迷いました。
このとき、次男・兼通が円融天皇に一通の手紙を手渡しました。開いてみると、故・中宮安子の字で「関白は兄弟の順に沿って任命すべきである」と書かれていました。円融天皇としては母の遺言に従わざるを得ません。
こうして藤原兼通が内覧に就任しました。この手紙が真に中宮安子の手によるものだったのか、偽造だったのかは分かりません。
ちなみに「内覧」とは、天皇が裁可する文書を先に見る役職です。ほぼ摂政や関白と同じ権限を持つことになります。兼通はまだ中納言に過ぎず、関白に就任する条件を満たしていなかったので、とりあえず「内覧」に就任したのでしょう。藤原兼通が正式に関白に就任するのはこれから2年後のことです。
天延元(973)年。藤原兼通は娘・媓子(てるこ:947~979)を円融天皇の女御として入内させました。その後、今度は兼家が娘・詮子(あきこ:962~1002)を入内させようとしますが、兼通に妨害されたため、かないませんでした。兄弟の争いは実に熾烈です。
天延4(976)年1月3日。兼家が冷泉上皇に入内させていた娘・超子が、居貞親王(おきさだしんのう:後の三条天皇:976~1017)を産みました。兄・兼通にリードされるばかりだった弟・兼家に、ようやく運が向いてきたようです。
貞元2(977)年。藤原兼通は病に倒れました。兼家にとっては大いなるチャンスがめぐってきたといえるでしょう。しかし兄の病を知った兼家は、そのチャンスを棒に振ってしまうことになるのです。
