日本人の物語01494【室町/西国/大乱前夜】足利義尚誕生
足利義尚といえば、大河ドラマ『花の乱』では松岡昌宏が演じていましたね。
義政が弟の義視に将軍職を譲るに当たって、多くの者が懸念していたと思われるのは、
「この後、義政に子が産まれたらどうするのか」
という点だったでしょう。というのも、この時点で義政28歳、富子24歳ですから、まだまだ実子が産まれる可能性があります。
『応仁記』によると、義政が義視に還俗して将軍になってほしい旨要請すると、義視は
「兄上に実子が産まれると家督をめぐる争いが起こる」
と言って難色を示しました。そこで義政は
「もし男子が産まれてもすぐに出家させる(つまり将軍にはしない)」
と誓ったので、義視は「兄上がそこまで言うなら」と納得して還俗したというのです。これまた史料としては信頼できない話ですが、実子が産まれる可能性が重要な論点として議論されていた可能性はあるでしょう。
そしてあろうことか、義視が還俗して間もなく富子は妊娠したのです。
義視還俗が寛正5(1464)年12月2日で、富子出産が寛正6(1465)年11月23日ですから、恐らく妊娠発覚は3月頃でしょう。義視にしてみれば「ふざけるな」という思いかもしれませんが、ともあれ、予定通り義視の将軍就任への準備は進められました。
寛正6(1465)年7月26日。義視は日野良子(ひのよしこ:?~1490)を妻に迎えました。将軍は代々日野家から正室を取るのが慣例ですから、これも将軍就任への布石の一つです。
そして11月23日に富子は男子を出産しました。後の9代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ:1465~1489)です。幼名不明のため、最初から義尚と呼ぶことにします。義尚は誕生の翌月から慣例通り伊勢邸に入れられ、伊勢貞親に養育されました。
『応仁記』によると、富子はどうしても息子を将軍に就けたかったため、山名宗全に
「若君の進退を計らってほしい。せっかく産まれた若君を剃髪させ、墨染の姿にやつすことは嘆かわしい」
との手紙を送り、義視の将軍就任阻止を訴えたといいます。このように、義視VS義尚の将軍継嗣問題こそが応仁の乱の主たる原因となったというのが、かつての定説でした。
しかしこれはあくまで『応仁記』の記述であり、創作に過ぎません。現在の定説では、応仁の乱の主原因はむしろ斯波・畠山両家の家督争いにあり、将軍家の家督はさほど問題になっていなかったと考えられています。仮に義尚を将軍にするにしても、義尚がまだ幼いため義視という「つなぎ」の将軍が必要になるわけですから、富子もまた義視の将軍就任を嫌がっていなかったと考えられます。
応仁の乱の原因をめぐる従来説と最新説の違いについては、次章で詳しく説明したいと思います。
最近出版された本でも、まだまだ将軍継嗣問題が応仁の乱の主原因とされているものがあるようです。
