日本人の物語01515【室町/東国/享徳の乱】宇都宮の裏切り
当初は有利に見えた成氏が徐々に追い詰められていきます。
幕府内で、成氏討伐令と上杉家の家督継承が次々と決定されていきました。
享徳4(1455)年3月28日、殺された山内上杉憲忠の弟に当たる房顕が、山内家当主と関東管領の座を継ぐことが認められました。3月30日にはその房顕が朝廷から錦の御旗を下賜されて成氏討伐を命じられ、東国へと旅立っていきます。つまり成氏は朝敵になったわけです。
4月には房顕は上野国平井城(群馬県藤岡市)に入り、上野国内の成氏軍と向き合いました。
一方幕府は、越後上杉房定と今川範忠に武家御旗を与えていました。錦の御旗が天皇の旗なら、武家御旗とは将軍の旗ですから、錦の御旗の方が敵の士気を削ぐ効果が高そうですが、この時代の東国においては意外と武家御旗の方が効き目があったかもしれません。
武家御旗をもらった今川範忠は、三島に撤退していた上杉軍と合流して鎌倉に向かいますが、成氏方もそれを防ぐべく三島に兵を派遣してきました。4月23日に両軍が激突し、幕府の命を受けた今川・上杉軍が勝利しました。成氏方は大将たる成氏が不在な上、今川・上杉方は武家御旗を持っているわけですから、士気は大きく違ったでしょう。
勢いに乗った今川・上杉軍は閏4月15日には箱根まで進軍し、翌16日には鎌倉入りを果たしました。当時鎌倉を守っていた成氏方は木戸氏・印東氏・里見氏といった者たちでしたが、かなわぬと見て武蔵国に逃亡していきました。
こうして成氏の本拠たる鎌倉が上杉方に奪われたわけですが、この間、成氏自身は古河に在陣していて北関東での争いにかかりきりでした。
5月1日には、成氏が味方になると期待していた宇都宮等綱が上杉方に付く旨を表明しました。さらに越後上杉房定が越後国人を引き連れて上野国白井城(群馬県渋川市)に入り、成氏は徐々に外堀を埋められていきます。
しかし成氏は相変わらず戦闘に積極的です。5月14日の武蔵大袋合戦(埼玉県越谷市)では上杉方の江戸通景を戦死に追い込むなど善戦し、5月20日には遂に小栗城を陥落させました。立て籠もっていた長尾景仲は下野国に敗走し、今度は天命(栃木県佐野市)と只木山(栃木県足利市)に兵を分散させて立て籠もります。なお、敗北した小栗助重は出家して宗湛(そうたん)と名乗り、絵師として活躍することになります。
この3ヶ月もかかった小栗城攻めが、成氏の鎌倉帰還を困難にしたわけで、成氏は小栗城を得た代わりに大きな代償を払ったといえます。成氏は敵軍の中心人物たる長尾景仲が憎いあまりに目先の戦いに捕らわれ、大局観を失っていたといえるでしょう。
「天命(てんみょう)」とはすごい地名ですよね。今は漢字表記が「天明」に変化して、「栃木県佐野市天明」という住所地番になっているようです。検索すると天明小学校というのもありました。
