日本人の物語01229【南北朝最末期】明徳の乱 二条大宮の戦い
「滑良(なめら)」という苗字はかなり珍しいですが、現代にもおられるようです。検索すると兵庫県宝塚市内に同じ地名を見つけましたが、民家は2軒しかなさそうです。
将軍義満の御馬廻には、山名時熙と氏之の姿もありました。彼らは領国を失い、家臣の多くをも失っていたので、やむなく義満の直轄部隊の中に身を置いていたようです。
時熙の家臣・垣屋弾正(かきやだんじょう)が
「明日は私が一番に討ち死にする。皆も続け」
と声をかけると、滑良兵庫助(なめらひょうごのすけ)が
「垣屋と一緒に死ぬぞ」
と叫んで盛り上がりました。時熙はこの戦いで活躍しなければ無職のままなので、家臣一同焦っていたのでしょう。
そして12月30日朝。幕府軍の主力たる大内義弘軍が守る内野に、氏清軍の先鋒・山名高義と小林義繁が近づいてきました。本来は氏清軍は二条大宮で満幸軍と合流する予定でしたが、満幸軍の進軍が予想以上に遅れてしまったため、氏清軍は単独で大内と戦う羽目になりました。
氏清軍が迫るのを見た大内義弘軍は、盾の隙間から無数の矢を飛ばしてきました。氏清軍は馬が立ち往生してしまい、大内軍に近づけません。やむなく小林義繁は馬から降りて太刀でもって斬り込みをかけました。これに長刀で立ち向かったのが大将・大内義弘です。
小林義繁の突撃によって左腕に切り傷を受けた義弘でしたが、長刀で小林の片足を斬り落とします。小林は首を取りに来た大内軍の兵と刺し違えて死にました。
この小林義繁の活躍を伝える『小林』という能曲があります。氏清と交流のあった僧が石清水八幡宮に参詣したところ、そこに小林義繁の霊が現れて合戦の様子を見せるというストーリーです。兜・長刀の着用や馬への騎乗が指示されている珍しい曲のため、最近は上演されることが少ないようです。
小林とともに先陣を切っていた山名高義は、混戦の隙をついて将軍義満の本陣を目指して駆けていましたが、将軍御馬廻たちに包囲され、戦死しました。2時間ほどの戦いで大内勢は60人ほどが討たれ、山名軍は183騎が討ち死にしたといいます。
内野の戦いを終えた大内義弘は、将軍義満の元に現れ
「ここらで先陣を入れ替えるべきと存じます。もし私ほどの家臣が討ち死にすれば将軍にとって大きな損失ですから」
と述べました。このとき義弘は左腕を2ヶ所斬られ満身創痍でしたが、義満側近の中には
「武士たる者、討ち死にを惜しむとは何事か」
と義弘の言葉を批判する者もいました。しかし義満は
「そなたの働きは見事である。加勢は追って寄越すゆえ、もうひと働きせよ」
と褒めたたえた上で、自分の太刀を授け、追って赤松義則を援軍として送り込みました。
