見出し画像

日本人の物語01504【室町/西国/大乱前夜】大乱前夜総括

このチャプター、書き始めたときは「退屈な話になるだろうな」と思っていたのですが、斯波家・畠山家の家督問題があまりにひどすぎて、書きながら面白くなってきました。

 嘉吉の乱が収束した嘉吉元(1441)年9月28日から、応仁の乱前夜の文正2(1467)年1月18日までを見てきました。応仁の乱の原因となる種はこの時期に十分に蒔かれていましたね。
 応仁の乱の原因は複層的で、
①畠山家の家督争い
②斯波家の家督争い
③細川と山名の主導権争い
④足利将軍家の家督争い
の4点が結びついたものといえますが、これらの中でも主原因といえるのは①でしょう。持国が気まぐれ的に義就を実子と認めたことが全ての始まりだったといえ、それは応仁の乱勃発の18年前のことでした。なお、④については当時さほど政治問題になっておらず、後世に大袈裟に創作されたと考えられるため、あまり詳しく説明してきませんでした。今後詳述する機会があるでしょう。
 ①~④いずれについても、義政が強力なリーダーシップをもって決断せず、朝令暮改が相次いだことが問題に拍車をかけました。義政の決断力不足を糾弾するのは簡単ですが、決断できなかった原因に思いを馳せると、原因を義政のパーソナリティだけに押し付けるわけにいかないと感じます。義政は個性の強い幕閣たちに囲まれ、若さゆえ自らの意見を通すことができなかったのです。
 これまでも若くして将軍となった人物はいました。数え年で見ていくと、3代義満は12歳、4代義持は9歳、5代義量は17歳でした。鎌倉公方も見ていくと、初代基氏は10歳、2代氏満は9歳、4代持氏は11歳です。
 しかし将軍家の義満・義持・義量はいずれも父が存命中の将軍就任であり、父が強いリーダーシップで導いてくれていました。鎌倉公方についても、基氏・氏満には腹心の上杉憲顕がいたのです。持氏にはブレーンがいなかったからあのように滅ぼされたわけです。
 こうしてみると、義政の時代には圧倒的な力量でもって幕政をコントロールする人物が不在でした。先々代の義教が独裁者に過ぎたため、そのような人物が一切いなかったのです。
 してみると、義政は最悪の状況で担ぎ出された哀れな為政者ともいえます。この後も、義政の周囲の幕閣たちは利害関係からたびたび衝突を起こし、そのたびに義政に自軍に有利な決定をするよう唆します。義政はその都度、実力者に言われるがまま決定するため、各氏の家督問題をますます混乱に陥れてしまうのです。

ここで一旦幕府情勢の話から離れます。後で戻ってきますので、応仁の乱勃発までのいざこざは是非記憶に留めていただければと思います。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集