日本人の物語00886【建武期】近江の戦い
後醍醐天皇方は比叡山に籠もったまま、出撃しなくなりました。そうすると、延元元/建武3(1336)年9月頃には食糧の蓄えが尽きてきました。そこで後醍醐方の面々は、
「まず近江の敵を退治して、美濃・尾張への道を開いて食糧補給ができるようにしよう」
と思い立ちました。
これに立ち向かったのが足利方の小笠原貞宗です。9月17日の前哨戦で小笠原勢に敗北した後醍醐方は、9月23日にはさらに選りすぐりの荒法師たちで琵琶湖を渡り、近江の小笠原勢に攻めかけました。小笠原軍は次々に討たれていきます。
そうした中で、小笠原軍の中で後醍醐方に降伏してきた者がいました。佐々木道誉です。道誉は後醍醐方に対して小笠原の悪口を述べ始めました。
「近江国は代々当家が守護を務めている国ですが、小笠原が勝手に自分の領地のように振る舞っており、我慢ならないと思っていたところです。もし近江国の守護職を恩賞としていただけるなら、すぐに小笠原を追い払ってみせましょう」
後醍醐天皇も義貞もこれをすぐに認め、道誉に兵を持たせて近江へと向かわせました。人がよいにも程があります。特に義貞は一度道誉に騙されているのに(00840回参照)、なぜ警戒心なく信じてしまうのでしょうか。
近江に攻め込んだ道誉は、予告通りに小笠原勢を近江から追い出しましたが、その後
「近江の守護職は将軍(尊氏)からいただいたものだ」
などと言い始め、なんと東坂本の後醍醐方に攻撃を始めました。つまり道誉の降伏はまたもや(もちろん!)偽りだったのです。
怒った義貞は、弟の脇屋義助に2千の兵を持たせて琵琶湖を渡らせ、道誉を攻撃させましたが、上陸すらできないまま敗れてしまいます。この戦いを「近江の戦い」といいます。
この道誉の偽装降伏のエピソードは、婆娑羅大名として知られるキャラクターを際立たせるための後世の創作であろうとも考えられます。
しかし同時代の史料を見る限り、比叡山に立て籠もる後醍醐方が小笠原・佐々木勢に敗れたことは史実のようです。この敗戦は後醍醐方にとって、食糧を確保するためのラストチャンスを失ったことを意味しました。
徐々に追い詰められてきた後醍醐天皇は、遂に尊氏への降伏を考え始めます。しかし、そこはただでは転ばない後醍醐天皇です。天皇は周囲をあっと驚かせる方法で、この窮状を乗り切ろうとするのです。
