日本人の物語01643【室町/西国/六角征伐】山名元之の乱
応仁の乱は終わりましたが、その後も様々な戦乱が立て続けに起こっています。
播磨をめぐる山名と赤松の抗争に目を向けてみましょう。
幕府が山城国からの年貢を確実に回収するために畠山政長を山城守護に任命したものの、短期間で解任したことは既に述べたとおりです。幕府は文明13(1481)年7月に、今度は赤松政則を山城守護、赤松家臣の浦上則宗を山城守護代に任命しました。
この頃、赤松は勢力を拡大させようと、宿敵山名との対決に挑んでいました。まず目をつけたのは、山名の領国である伯耆国(鳥取県西部)です。
前述したとおり、文明3(1471)年に山名教之は長男の豊之を伯耆守護、次男の豊氏を因幡守護に据えたものの、両者とも東軍勢力に殺害されてしまいました(01577回参照)。その後、伯耆守護の座は豊之の子・政之(まさゆき)に移っていました。
文明13(1481)年8月、その政之に対して豊之の弟・元之(もとゆき)が謀反を起こしました。この謀反には赤松家臣の中村五郎左衛門(なかむらごろうざえもん:?~1481)らが参加していたらしく、明らかに赤松の陰謀によるものでした。
謀反は鎮圧され、中村五郎左衛門は戦死しました。元之は自らの円山城(鳥取県伯耆町)を捨て、弟の小太郎(こたろう)や息子の新九郎(しんくろう:?~1489)とともに美作国へと逃れました。
9月には元之に味方していた残党たちの立て籠もる法勝寺城(鳥取県南部町)も落とされ、山名の完全勝利となりました。赤松は自分から山名に喧嘩を仕掛けておいて、敗北してしまったのです。
赤松政則としては、いつまた山名が復讐戦を始めてくるか分からず、上洛することができなくなりました。これでは山城守護は務まらないということで、10月になって辞退する旨を幕府に伝達しました。
やむなく幕府は代わりを探し求めますが、なかなか受けてくれる者がいません。当時、幕府に頼られることが守護にとっていかに迷惑だったかが分かります。
山名に敗北したことで、赤松の領国では赤松家に対する反乱も始まりました。文明15(1483)年7月には、備前鹿田庄(岡山県岡山市)の国人・松田元成(まつだもとなり:?~1484)が謀反を起こします。松田はかつて赤松に恩義を感じ、献身的に奉公してくれていた人物でしたが(詳細は後述)、赤松の凋落ぶりを見て好機だと思ったらしく、備前国内の赤松領を次々と押領し始めたのです。
この時代、少しでも隙を見せるとかつての友や家臣にも所領を奪われるのです。赤松は危険な賭けを自ら始め、敗れたために大きな代償を払うこととなったのです。
山名と赤松はもう何年戦っているのでしょうか。
