日本人の物語00852【建武期】第一次京都合戦 神楽岡の戦い
三井寺の戦いは新田軍の勝利に終わったものの、そのまま逃げる細川軍を追跡して京へ入った新田軍は、呆気なく敗れて坂本まで戻って来ました。圧倒的な数で京を占拠する足利軍に対しては、もう少しじっくりと攻め寄せる必要がありそうです。
坂本で軍略を練っていた新田軍のもとに、建武3(1336)年1月20日、東国に派遣されていた洞院実世の軍が合流して来ました。洞院実世といえば建武政権で所領問題を担当していた公卿ですが、尊氏の反乱が起きた際に新田義貞とともに東国に派遣されるも、箱根・竹ノ下の戦いに間に合わず、京に戻ろうとしていたところだったのです。洞院の軍は2万騎の大軍でした。
一同は話し合い、1月27日に京に一斉攻撃を仕掛けることが決まりました。
1月27日未明、血気盛んな新田軍の兵たちは夜も明けないうちに神楽岡(京都市左京区)の敵陣に攻め入ります。ところが待ち構えていた足利方が次々と矢を射かけたため、新田軍はたまらず敗走し始めます。
そこに登場したのが新田方の因幡全村(いなばぜんそん)という僧兵でした。全村は仁王立ちになって名乗りを上げ、鏑矢を1本、敵の櫓に投げつけました。この矢が櫓の中に立っていた鎧武者の鎧を突き抜け、即死させます。弓で射たのではなく手で投げただけでこの威力なのです。このことから因幡全村は「手投げの因幡」の異名をとるようになります。
全村の活躍によって新田軍は大いに勢いを得ました。新田義貞、楠木正成、名和長年、北畠顕家と名だたる武将たちが次々と攻め入り、尊氏は母方の叔父に当たる上杉憲房(うえすぎのりふさ:?~1336)を失うほどの大打撃を受けました。翌28日になると足利軍の大敗は決定付けられ、撤退するほかありませんでした。
足利尊氏らは丹波路を逃げていきます。新田軍の中にはこれを追跡した者もいましたが、逆襲されて討ち取られてしまったので、新田軍は
「いたずらに深追いするな」
と声をかけ合い、ひとまずは足利軍を京から追い出すにとどまりました。
新田義貞は、このまま京を占領するか悩みましたが、楠木正成が
「今日は敵を退けたとはいえ、討ち取った敵の数はそれほど多くありません。また盛り返してくるおそれがあります。また、我が軍の兵が京で略奪してしまうかもしれません。今回はこのまま引き返して馬を休め、明後日にでももう一勝負しましょう」
と提案すると、義貞も同意して一同は坂本に帰ることとなりました。正成はさすがに慎重です。
新田軍が京を後にすると、足利軍は不思議がりながらも京に戻って来ました。なぜ新田軍が退いたのか、尊氏には理解できなかったのです。
