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日本人の物語01652【室町/西国/六角征伐】飫肥の役

宮崎県に行ったことがありません。行くなら、まずは鵜戸神宮と高千穂ですかねえ。

 文明16(1484)年から文明17(1485)年にかけて島津家と伊東家による飫肥城(おびじょう:宮崎県日南市)の争奪戦がありました。その原因は、周辺の国人・新納忠続(にいろただつぐ:?~1489)と伊作久逸(いざくひさやす:1441~1500)の対立にありました。
 そもそも薩摩・大隅・日向の3ヶ国守護を務める島津奥州家忠昌は、飫肥城を新納忠続に、櫛間城(宮崎県串間市)を伊作久逸に、それぞれ任せていました。
 しかし新納と伊作の仲は険悪でした。文明16(1484)年10月、伊作を憎む新納忠続は島津忠昌に
「伊作をどこか別の土地に移してほしい」
と訴え出ました。
 このことに激怒した伊作久逸は、島津家の天敵である伊東祐堯(いとうすけたか:1409~1485)・祐国(すけくに:1450~1485)父子に支援を求めました。伊東氏はあの源頼朝の命をつけ狙っていた伊東祐親(00457回参照)の子孫であり、元々は静岡県伊東市を拠点としていましたが、足利尊氏から日向国に領地を与えられ、それ以降は佐土原城(宮崎県宮崎市)を拠点に島津氏と争っていました。
 11月末、伊作久逸の要請を受けた伊東祐国は飫肥城を包囲しました。
 島津の領地の一角が奪われそうになっているわけですから、この危機に対して島津家の中でも最も飫肥城に近い領地を持つ三俣下城(宮崎県都城市)の島津伯州家豊久が出陣しました。しかし12月、豊久は伊東祐国との戦いに敗れ戦死してしまいます。
 翌文明17(1485)年6月になって、遂に島津家当主・忠昌が出陣しました。4月28日の清武城(宮崎県宮崎市)の戦いで伊東祐堯が戦死し、続いて6月21日の楠原(くすばる:宮崎県日南市)の戦いでは伊東祐国が戦死し、伊東方は大敗を喫しました。これらの飫肥城をめぐる一連の戦いを「飫肥の役」といいます。
 戦後、島津忠昌は戦乱の原因となった新納忠続と伊作久逸に移封の処分を下しました。裏切り者である伊作久逸はかつての領地であった伊作(鹿児島県日置市)に戻され、一方で新納忠続もかつての領地・志布志(鹿児島県志布志市)に戻されました。といっても、新納は裏切ったわけではないため、追加でいくつかの領地を賜ったようです。
 飫肥城は豊州家の島津忠廉(しまづただかど:1440~1491)にあてがわれました。豊州家といえば島津季久を祖とする分家筋ですが、忠廉はその季久の子です。
 それにしても、一時は裏切って伊東と組んだ伊作を滅ぼさず、そのまま家臣としての存続を許すとは、島津忠昌は余程寛大だったのか、はたまた強気に出られるほどの求心力がなかったか、どちらかでしょう。

志布志市(しぶしし)って発音しにくい地名ですね。

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