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日本人の物語00730【鎌倉後期】正中の変 事件発覚

 多治見国長は倒幕計画の味方を増やすべく、土岐頼員(ときよりかず)という男に誘いをかけていたのですが、この土岐頼員はひどく口の軽い男でした。
 元亨4(1324)年9月18日の夜、土岐頼員はふと妻に
「私が死んだら冥福を祈ってくれ」
と語り出しました。ひどく思わせぶりな話ですね。
 妻がその意図をしつこく問いただしたところ(そりゃ問いただすだろう)、頼員は遂に
「実は鎌倉討伐の旗揚げに加わることとなったのだ」
と話してしまいます。
 土岐頼員は妻に
「謀反の計画は口外しないように」
と申し付けたものの、この妻は六波羅探題に勤める御家人・斎藤利行(さいとうとしゆき:?~1326)の娘でした。当然、話は翌朝には六波羅探題に伝わります。
 驚いた斎藤利行が頼員を呼び、
「どうにかしてお前の命を救いたいと思う。そのためにも全て白状せよ」
と促したところ、頼員は計画の全てを暴露してしまいました。頼員が語った計画とは、
「元亨4(1324)年9月23日に行われる北野祭に乗じて六波羅探題を襲撃する」
というものでした。
 計画を知った六波羅探題北方・常葉範貞(ときわのりさだ:?~1333)はすぐさま動きます。9月19日朝、倒幕計画の参加者である土岐頼有と多治見国長に出頭命令を出したのですが、2人がこれを拒否したため、範貞は兵を繰り出して2人の屋敷を取り囲みます。合戦の末、2人は取調べを受けないまま自害しました。
 しかし範貞としてはこれで終わるわけにいきません。倒幕という一大事を土岐・多治見という弱小御家人だけで計画できるわけがないのです。
「背後に何者かがいるに違いない」
と考えた範貞は、さらに日野資朝・俊基の2名を捕縛し、取り調べることとしました。
 9月23日。後醍醐天皇は側近の万里小路宣房(までのこうじのぶふさ:1258~1348)を鎌倉に派遣し、弁明に当たりました。これに対応したのは幕府の最高権力者であった内管領の長崎高資です。
 このときの後醍醐天皇の対応ぶりが、あまりにひどいのです。

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