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日本人の物語01479【室町/西国/大乱前夜】越前長禄合戦 内乱勃発

この連載もだんだん読みこなすのが難しくなって来ましたね。「苗字を聞いたらどの国の守護なのかが分かる」というレベルが求められます。ちなみに畠山家は河内国、斯波家は越前国です。

 応仁の乱の主たる原因は、畠山家と斯波家の家督問題です。畠山家については既に何度も述べているので、ここからは斯波家について述べていきましょう。
 斯波家の揉め事は、まず「越前長禄合戦」と呼ばれる守護と守護代の戦いから始まりました。越前ではかねてより、守護・斯波義敏とその守護就任に納得しない守護代・甲斐常治との対立が続いていましたが、斯波義敏は康正3(1457)年1月、甲斐常治に味方する義政の姿勢に不満を感じて東光寺(京都市東山区)に出奔してしまいます。
 長禄2(1458)年2月には、細川勝元の仲裁によって両者は和解したかに見えたのですが、7月になると両者の武力衝突が始まりました。興福寺の経覚は日記に
「主従の合戦、未曾有の次第なり」
と記して嘆息しています。経覚は越前国内に保有する荘園の管理を甲斐常治に請け負わせていたため、この合戦の行方には関心を持っていたようです。
 甲斐は主家に対して謀反を起こしたわけですが、なんと将軍義政は甲斐方を支持する方針を表明しました。室町幕府発足当初から、将軍家は事あるごとに斯波家を危険視しており、その監視役として甲斐家を信頼していたようです。
 将軍が味方だとの情報は甲斐方の士気を高めたでしょうし、一方で斯波義敏自身は幕府に出仕するため京を離れられず、京から遠隔で指揮を執るだけでしたから、おのずと義敏方の士気は下がります。そうした影響からか、戦いは甲斐方が優勢なうちに推移しました。しかし8月7日に斯波義敏方の堀江利真(ほりえとしざね:?~1459)が京から越前に入ると、義敏方が盛り返します。
 甲斐との戦いに幕府への出仕。大忙しの斯波義敏に、時ならぬ出陣命令が下ります。長禄3(1459)年4月20日、鎌倉公方・足利成氏討伐のため関東に出陣するよう命じられたのです。一説によると、義敏に手柄を立てさせようと考えた細川勝元の親切心だったともいわれています。ちなみにこの時期に足利成氏が起こした反乱「享徳の乱」については、次章で詳述します。
 思えば、斯波義敏は将軍義政からひどく嫌われていました。守護と守護代の争いで、将軍が守護代を支援するなど本来ならあり得ないことです。もし義敏が享徳の乱でしっかり活躍すれば将軍からの覚えもめでたくなり、越前長禄合戦も有利に運べるはずだ、と勝元は考えたのでしょう。
 ところが義敏にとって、このタイミングでの関東への出陣はひどく迷惑な話でした。越前での戦いを指揮できなくなり、最悪の場合領国を失うことになりかねません。そこで義敏は危険な賭けに打って出ることとなります。

東国と西国を分けて連載することにしたのですが、今回のように東国情勢が西国情勢に影響するところがあり、書き方が難しいのが悩みです。読者の皆さんは「享徳の乱」というまだ聞いたことがない東国の戦いが出てくることに戸惑われたことでしょう。

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