日本人の物語00597【鎌倉前期】三日平氏の乱
2代将軍を葬った時政の勢いは止まりません。自分に従う御家人を重用して、反対派を粛正しようと画策し始めます。
この時政とつるんで権勢を振るったのが、牧の方(まきのかた)です。牧の方は北条時政の後妻で、時政との間に一男三女をもうけ、時政に取り入っては自らに都合のよい人事を発令させようとしていました。
その牧の方が重用したいと考えていたのが、娘婿の平賀朝雅(ひらがともまさ:?~1205)です。
「愛する娘が嫁いだ男に出世してもらいたい」
という思いを抱くことは理解できますが、牧の方のとった方法は常軌を逸していました。頼朝の晩年に、平賀朝雅を頼朝の養子として縁組し、朝雅の権威を無理やり高めたのです。
そこに、さらに朝雅が出世栄達を極める契機となった事件が起こります。
建仁3(1203)年12月、平家の残党が伊勢国で蜂起し、伊勢守護である山内首藤経俊(やまのうちすどうつねとし:1137~1225)の館を襲撃し、さらに元久元(1204)年2月には伊賀でも大々的な蜂起が起きたのです。幕府の出先機関としてこうした反乱を鎮圧すべき立場にある山内首藤経俊はなすすべもなく逃亡し、伊勢・伊賀の2国が平家方に占領されてしまいました。
これを鎮圧すべく派遣されたのが、平賀朝雅でした。牧の方が時政に働きかけて、この人事を実現したものと思われます。
3月29日、朝雅は200騎の軍勢を率いて出陣し、なんと4月10日から12日にかけての3日間の戦闘で見事これを鎮圧しました。この事件を「三日平氏の乱」といいます。
この事件の論功行賞として山内首藤経俊は伊賀・伊勢の守護職を剥奪され、平賀朝雅がこの職を継ぐこととなりました。
一見すると、平賀朝雅は姑(牧の方)のひいきで成り上がったのではなく、見事に実績を上げたからこそ昇進したのだといえるかもしれません。しかし、研究者によってはこの「三日平氏の乱」を牧の方と平賀朝雅が組んで仕掛けた自作自演であったと考える人もいます。確かに、伊勢守護の軍勢がたやすくやられてしまったというのに、平賀朝雅がたった200騎の軍勢で3日間で鎮圧できるというのは、いかにも不自然です。
いずれにせよ、平賀朝雅について、
「大した力もないのに義母の七光りでのし上がっている」
と苦々しく見ていた御家人は多かったことでしょう。
