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日本人の物語00406【平安後期】動員準備

 保元元(1156)年7月3日。
「崇徳上皇が兵を用いて後白河天皇方を攻める準備をしている」
との噂が流れ始めました。本当に崇徳側から先に手を出そうとしていたのか、それとも崇徳側を罠にはめるために後白河側が流した噂だったのか、判然としません。
 7月8日には、後白河天皇は「藤原頼長が謀反を企てている」として配流を決定しました。しかし当然、頼長はこれに従おうとはしません。もはや決戦を覚悟していたものと思われます。
 7月10日。藤原頼長は兵を起こすべく準備にかかります。源為義に助力を要請したところ、為義にとっては平素から恩義のある頼長からの要請ですから、「一族総出で崇徳上皇方につく」と決定しました。ただし、もちろん長男・義朝だけは離反し、為義陣営から出て行ってしまいます。
 このとき、為義のもとに、たまたま八男・為朝(ためとも:1139~1170?)が九州から上洛してきていました。この源氏一門の問題児・為朝について詳しく紹介しておかなければなりません。
 為朝は幼時から乱暴者で、たびたび問題を起こすため、13歳のとき父・為義により九州に追放されてしまいました。しかしその九州の豪族とつるんで次々と合戦を起こし、3年間で九州を征服してしまったという恐ろしい人物です。
 その体格も恐ろしいものです。身長は2メートル以上で、前に出して弓を支える左腕が、後ろで弦を引く右腕よりも4寸(12cm)も長いというのです。まさに弓を引くために生まれたような体つきといえます。彼が射る矢は岩をも砕くと恐れられていました。やや後世の誇張もあると思われますが、その伝説は江戸時代に『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』という小説にまとめられ、人気を博しました。作者は『南総里見八犬伝』などで有名な曲亭馬琴(きょくていばきん:1767~1848)です。
 久寿元(1154)年。源為朝に、九州での狼藉を審議するため「朝廷に出頭せよ」との宣旨が下りました。為朝は召喚に応じようとせず、翌久寿2(1155)年には父・為義が責任を負って解官されてしまいます。これに驚いた為朝は、慌てて九州から上洛したというわけです。
 この問題児・為朝が為義とともに崇徳上皇方に加わることとなりました。
 一方、同じ7月10日、美福門院得子は後白河天皇方に武士を集めていました。得子は当初、平忠盛の未亡人・池禅尼が重仁親王(崇徳上皇の子)の乳母だったことから、「平氏は崇徳方につくだろう」と予想し、平氏を呼び出そうともしませんでした。
 しかし平清盛は前述のとおり藤原頼長と対立していたことから、「後白河方につく」と決定し、一族を連れて参集しました。平氏の中では、叔父の平忠正だけが離反して崇徳上皇方へつくこととなったのです。

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