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日本人の物語01442【第一尚氏】尚円のクーデター

琉球放送の「琉球歴史ドラマ」シリーズの『尚円王』は非常に面白かったです。4作目を期待しています。

 天順4(1460)年6月5日に尚泰久が死去し、その三男である尚徳(しょうとく:1441~1469)が7代国王に即位しました。尚徳は尚泰久の子の中で、唯一護佐丸の血を引いていない男子です。
 20歳の尚徳王に対して金丸は46歳。当初は尚徳も金丸の助言を仰ぎながら政務に当たっていましたが、何かと口を出す金丸を煙たく感じるようになります。
 2人の関係に決定的な亀裂が入ったきっかけは、喜界島(鹿児島県喜界町)の遠征問題でした。琉球王国は数度に渡って喜界島に対し服属を迫っていましたが、喜界島は強気に拒み続けていました。尚徳は自ら指揮を執って喜界島を制圧すると言い出しますが、金丸はこれに猛反対します。
 成化2(1466)年2月25日。尚徳は金丸の反対を振り切って、船50隻、兵2千騎を率いて那覇港を出発しました。そして喜界島を難なく制圧し、3月13日に凱旋帰国しました。
 この成功に味をしめた尚徳は、ますます金丸の言うことを聞かなくなりました。居場所を失った金丸は、辞職して内間間切(沖縄県西原町)に隠居しました。
 そして何ともタイミングが良いことに、隠居から1年後の成化5(1469)年4月22日、尚徳は28歳の若さで急逝します。
 尚徳の子・志義(しぎ:?~1469)はかなり幼かったようです。その志義を即位させるための式典が行われていたところ、突然白髪の老人が現れ、
「先王は暴虐無動で、民の苦しみを顧みなかった。その子を廃し、金丸が即位すれば国家の幸せである」
などと叫び出しました。群臣たちが口々に賛成するので、王妃や乳母は志義を抱いて必死に逃げましたが、捕らえられて殺されました。
 群臣たちが金丸を訪ねて王となるよう懇願しても、金丸はなかなか承諾しませんでした。しつこく説得してようやく折れた金丸は、7月に即位し「尚円」と名乗りました。明との関係上、尚氏と血縁関係があると偽る必要があったのでしょう。
 王国第一の忠臣であった越来賢雄は、このクーデターに反対したため討伐軍を差し向けられ、知花城(沖縄県沖縄市)の中腹にある洞窟に追い込まれ、火攻めの末に殺されました。つまり百度踏揚は二度も夫を政争で失うこととなったのです。彼女は再婚することなく玉城(たまぐすく:沖縄県南城市)で余生を過ごしました。
 このクーデター劇は、金丸にとって都合の良いストーリーとなっています。実際には金丸が主導したクーデターだったでしょうし、何なら護佐丸・阿麻和利の死すら金丸の企みだった可能性もあります。
 ともあれ、金丸改め尚円の即位によって第二尚氏の時代が始まりました。これ以降の歴史はまた次の機会にお話しすることにしましょう。

第二尚氏の方が第一尚氏よりだいぶ長続きすることになります。

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