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日本人の物語01325【室町/義持期】和睦成立

戦後80年ということで、特集番組が多数放送されていますね。私も早く太平洋戦争について書きたいのですが、この連載が昭和に行き着くのは20年後くらいになりそうですね。

 幕府と持氏の壮絶な争いは、意外な形で幕引きとなりました。
 応永30(1423)年11月29日。持氏が使者を上洛させて和睦を乞うたのです。和睦の条件は「幕府が禅秀残党への支援を辞めること」でした。これまで強気だった持氏ですが、このまま持久戦が続けばジリ貧を強いられることが分かったのでしょう。先に小さな勝利を積み重ねておいて、勝っている自分の方から和睦を切り出すとは、なかなかの策士です。
 持氏はかねてより禅秀の遺児である犬懸上杉憲秋(いぬがけうえすぎのりあき:?~1455)・教朝(のりとも:1408~1461)兄弟を追討するよう命令していましたが、幕府はこの兄弟を匿っていました。持氏はその兄弟の庇護をやめろと幕府に要望しているわけです。この条件を見た義持はやや不本意ながらこれを了承しました。
 応永31(1424)年2月3日。持氏が義持に対して提出した誓文が京に届きました。和睦を成立させ、互いに矛を収める旨の書状です。
 こうして幕府と持氏の全面武力衝突は防がれ、常陸守護職は佐竹家と山入家の折半にするなどの調整が行われました。しかし幕府方が和睦の条件をなかなか履行しないことが、持氏をやきもきさせました。幕府は犬懸上杉家の憲秋・教朝兄弟を引き続き庇護したのです。
 その後、持氏はなかなか武蔵府中(東京都府中市)の陣を引き払おうとせず、まだ戦うつもりなのかと周囲を心配させましたが、10月14日に遂に引き払って鎌倉に帰還しました。翌11月には持氏の味方として活動していた稲村公方満貞も、陸奥での活動をやめて鎌倉に帰還してきました。持氏は急に大人しくなったのです。
 和睦成立後しばらくは、義持は持氏対策の仕事から解放されました。しかし例によって個性の強い称光天皇・後小松上皇の対応に奔走させられました。
 5月6日、伊勢守護・世保持頼(よやすもちより:?~1440)と後小松上皇に仕える女官との不倫が発覚しました。これを皮切りに他の密通も次々と噂されるようになりました。
 5月12日、ヒステリーを起こした後小松上皇は周囲の人々に片っ端から嫌疑をかけ、起請文を強要していきました。橘知興(たちばなのともおき)、中山有親(なかやまありちか)、松木宗宣が密通の罪に問われるのを恐れて逐電したと記録されていますが、松木宗宣は前科があるので(01307回参照)疑われても仕方ないでしょう。
 後小松上皇は称光天皇の生母である日野西資子に対しても執拗に起請文提出を求めましたが、称光天皇が必死に母をかばったため免除されました。
 義持は美濃守護・土岐持益に世保持頼追討を指示しつつ、後小松上皇のもとに連日通って酒宴を催し、機嫌を取りました。かつて後円融上皇がヒステリーを起こした際、義満は完全に上皇を除け者にしたわけですが、その態度とはまるで真逆です。さらに仙洞御所に遅参した広橋兼宣、日野有光(ひのありみつ:1387~1443)、裏松義資(うらまつよしすけ:1397~1434)を謹慎処分にするなど、上皇を重視していることを内外に示しました。

義持VS持氏の争いは一旦持ち越しです。

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