日本人の物語00657【鎌倉中期】北条経時の短命政権
仁治3(1242)年6月15日。かねてより体調を崩していた泰時が死去しました。泰時の子・時氏は早世しているため、時氏の子・経時が4代執権となりました。
このとき、鎌倉で合戦が起こるとの噂が流れ、将軍御所が厳重に警護され、通路が封鎖されたといいます。その原因について吾妻鏡はなぜか口が重く、何も語ってはくれませんが、おそらく将軍頼経を奉じて執権経時を亡き者にしようとする計画があったと考えられます。
執権経時は19歳で、将軍頼経は25歳です。この年齢差が将軍の権威を自然と高めていき、御家人の中に、北条を差し置いて将軍にすり寄る者が出てくるようになったのでしょう。吾妻鏡ははっきりとその名を記してはいませんが、名越朝時がその一人であったと推測されています。
名越朝時は義時の次男で、承久の乱では北陸道から京に攻め入った人物です。おそらく執権職を継げないことに不満を持ち、北条家の家督を略奪することを狙っていたのでしょう。
これに対して経時はあっと驚く手法で、実権を自ら握ることに成功します。寛元2(1244)年4月28日、将軍頼経を解任し、その子の頼嗣(よりつぐ:1239~1256)という幼児を5代将軍に据えてしまったのです。
これ以降、頼経は「大殿」と呼ばれて鎌倉にとどまるものの、執権経時は20歳で、将軍頼嗣は4歳ですから、年齢差から見て再び執権優位の状況となりました。
このことは、吾妻鏡では軽く
「寛元2(1244)年4月21日。将軍頼経は突然辞職を思い立ち、将軍を辞した。4月28日に子の頼嗣が将軍となった」
としか書かれておらず、経時の謀略とは書かれていません。研究者によっては、逆に
「頼経が将軍の父となることで実権を握ろうとした」
と解釈する人もいますが、多数説はあくまで
「名越朝時が頼経と結びついて反北条の派閥を作っていたため、経時はこれを警戒して将軍を解任した」
というものです。
寛元3(1245)年7月26日。経時の妹・檜皮姫(ひわだひめ)が頼嗣に嫁ぎました。経時は将軍の義兄となるわけで、将軍と執権の血縁を深めるとともに、執権の権威を高めようとしたのでしょうが、数え7歳の夫と16歳の妻ですから、少々無理のある縁談といえます。
しかし寛元4(1246)3月23日、執権経時は重病のため執権職を弟の時頼に譲り、それから間もなく閏4月1日に亡くなりました。享年22歳。僅か4年の在職にして、早すぎる死でした。
