日本人の物語00385【平安後期】源義親の乱
康和3(1101)年2月13日。摂関藤原家の長であった師実が死去しました。当時22歳の忠実にとっては、父に続いて祖父をも失ったわけで、日記に
「万事不覚。よって委記する能はず」(もはや何も考えられない。書くことすらできない)
とその衝撃を記しています。余程心細かったのでしょう。
さて、この康和3(1101)年には西国で反乱がありました。源義親(みなもとのよしちか:義家の子:?~1108)の乱です。事の始まりは、大宰大弐・大江匡房が「対馬守・源義親が大宰府の命に従わず人民を誅求している」と都に連絡してきたことでした。
忠実たちは議論した結果、「まずは義親を呼び出して直接話を聞いてみよう」ということになりました。朝廷は九州に使者を派遣して義親を召喚しようとしますが、このとき、義家に対しても義親を説得する使者に誰か家臣を加えるよう命じました。
義家は、郎党の藤原資道(ふじわらのすけみち)を官使に同行させますが、なんと藤原資道は逆に義親の味方をして、一緒になって官使を殺害してしまいます。朝廷から派遣された役人を斬ってしまったわけですから、これは明白な反逆です。
翌康和4(1102)年12月18日に、朝廷は義親を隠岐に流罪することと決定しました。
この判決に対して、義親は当初はこれを受け入れ、出雲まで行ったのですが、そこから隠岐に渡ろうとせず、あろうことか出雲の目代を殺害してしまいます。反乱は継続していったのです。
源義親の乱が長引く中、嘉承元(1106)年7月4日に源義家は死去しました。最後まで息子の反乱を鎮圧できないままでした。このとき義家の遺言により、
・源氏の棟梁は源義忠(みなもとのよしただ:義家の三男:1083~1109)が継ぐこと
・義親の子・源為義(みなもとのためよし:1096~1156)を義忠の養子とし、源氏を継がせること
が決定しました。
義忠は義家の三男で、義家から「父・頼義によく似ている」と評されていました。次男・義親が乱暴者でどうしようもなかったため、義家としてはなおさら三男・義忠をかわいがることになったのでしょう。
一方、反逆者たる義親の子である為義が源氏を継ぐこととなりました。一見おかしなことに見えますが、為義は義親の乱に加わっておらず、義家から高く評価されていたものとみられます。
しかし、義親の乱の平定に当たって、源氏は何ら活躍できませんでした。嘉承2(1107)年12月19日に平正盛(たいらのまさもり:?~1121?)が義親の追討使に任命され、翌嘉承3(1108)年1月6日、平正盛はこの追討に成功したのです。1ヶ月足らずでのスピード解決でした。平氏の評価は高まり、源氏の評価はますます下がっていきました。
