日本人の物語01566【室町/西国/応仁の乱】尼子清貞の活躍
尼子というと島根県のイメージですが、実は滋賀県の出身なんですね。織田が愛知県ではなく元々福井県だったのと似ています。
京極家が約130年ぶりに近江守護に復帰した旨を述べました(01564回参照)が、その京極持清は別途、出雲・隠岐守護を務めていました。持清は他の守護と同様に京に居住して、出雲は守護代・尼子清貞(あまごきよさだ:1410~1488)に統治させていました。なお、尼子氏は近江国尼子(滋賀県甲良町)を本拠としていましたが、出雲に渡ってからは月山富田城(島根家安来市)を本拠としています。(清貞は江戸時代以降の文献で長らく「清定」と誤記されていましたが、同時代の史料『日御碕神社文書』などから「清貞」が正しいことが判明しました。)
その出雲にも応仁の乱が飛び火してきます。
応仁2(1468)年6月。出雲能義郡(島根家安来市)の国人・松田備前守(まつだびぜんのかみ)が、西軍の伯耆守護・山名教之と結んで月山富田城に攻めこんで来ました。清貞は見事これを撃退します。さらに文明元(1469)年7月に再び松田備前守が攻め込んできて、清貞がまたこれを撃退しました。
このとおり京極持清は近江では六角、出雲では山名とそれぞれ戦わねばならず、困難な領国運営を強いられました。出雲での戦いを有利に進めた尼子清貞に対し、持清は褒美として美保関(島根県松江市)の代官職を与えています。美保関は中海への入り口に位置しており、港を管理するのにうってつけの場所で、この人事によって尼子清貞は相当の利権を得られたことでしょう。清貞は出雲支配を強め、文明2(1470)年には石見から、文明3(1471)年には伯耆から、それぞれ西軍が攻め込んで来たのを撃退しています。
さて、その京極持清が文明2(1470)年8月4日に死去したことで、京極家の混乱が始まりました。既に長男勝秀は死去しており、その勝秀の嫡男・孫童子丸(まごどうじまる:1466~1471)と庶子・乙童子丸(おつどうじまる:後の京極高清:1460~1538)のいずれが家督を継ぐかで争うことになったのです。それぞれの候補を推した人物は次のとおりです。
孫童子丸派: 持清の三男・京極政経(きょうごくまさつね:1453~1502?)と近江守護代・多賀高忠
乙童子丸派: 持清の次男・京極政光(きょうごくまさみつ:1450~1473)と飛騨守護代・多賀清直(たがきよなお:?~1479)
このとおり、京極家のみならず守護代の多賀家までもが分裂してしまいました。
幕府は政経を後見役として孫童子丸の家督継承を認め、出雲・隠岐・飛騨・近江守護に任命しました。それに不満を感じた乙童子丸派は9月には西軍方に寝返り、六角高頼と和睦して連携し、孫童子丸派に圧力をかけます。
こうして近江は六角・京極・多賀の3家がそれぞれ分裂し、入り乱れて戦う状況となりました。孫童子丸派が東軍、乙童子丸派が西軍です。
両者の武力衝突は文明3(1471)年から始まります。
近江はかなりややこしいです。細川のように一枚岩の氏族は珍しくなってきました。まあその細川も数十年後には一族同士で争うのですが。
