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日本人の物語00487【平安末期】義仲孤立

 調子に乗った義仲は勝手気ままに人事を動かし始めました。郎党に
「天皇になろうか。法皇になろうか。よし、関白になろう」
などと放言しましたが、家臣から
「藤原氏でなければ関白になれません」
と言われ諦めたといいますから、余程教養を持たない人物だったことが窺い知れます。
 自ら関白に任ずることができないため、ならば自分の息がかかった人間を摂関に据えようと考えたのでしょう。寿永2(1183)年11月21日、義仲は平家寄りの摂政・近衛基通を解任し、アンチ平家方の前摂政・松殿基房と連携の上、基房の子で僅か12歳の松殿師家(まつどのもろいえ:1172~1238)を摂政としました。さらに義仲は、松殿基房の娘・伊子(まさこ:1167?~1207?)と婚姻することで、自らの権威を高めることにも注力しました。しかし、義仲のような無邪気な自然児と都育ちの優雅な公家の娘との間で、まともな対話が成り立っていたのか心配になりますね。
 義仲にとって、一番の懸念は平家よりも鎌倉の頼朝勢力だったでしょう。子の義高を人質に出しているとはいえ、法皇を幽閉してしまったからには、もはや頼朝が敵対勢力となることは必定でした。
 そこで義仲はあっと驚く手に打って出ます。12月2日、義仲は平宗盛に和睦の使者を送り
「共に頼朝を討とう」
と言ってのけたのです。平家と組んで源氏嫡流の頼朝を討とうなどとは、まるで本末転倒で、名誉や一貫性よりも実利のみを求める実に義仲らしい考えです。
 この提案に対して、定見のない平家の棟梁・宗盛は喜んで受け入れようとしますが、弟の知盛が「拒絶すべき」と主張しました。確かに、都で評判が悪い自然児・義仲はいつまた裏切るか分からず、信頼に値する相手ではありません。結局、平家はこれに乗ってきませんでした。
 12月10日には、後白河法皇が義仲に対して頼朝追討の院宣を発しました。といっても、明らかに義仲が強要して出させたものです。
 さらに12月15日には、平泉の藤原秀衡に対しても同様に頼朝追討の院宣が発せられました。もちろん秀衡は経緯をよく分かっていますから、これに従おうとはしませんでした。
 頼朝を討とうとする者がおらず、義仲は徐々に焦り始めていました。自分の号令に従う者を増やすべく、寿永3(1184)年1月10日には、義仲は「征東大将軍」に就任しました。これまた、幽閉中の後白河の命による除目であり、武士たちは従おうとしませんでした。
 後白河の幽閉に成功したものの、源氏内でも孤立し、頼みの平家も味方せず、義仲は徐々に追い詰められていきます。

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