日本人の物語01651【室町/西国/六角征伐】奉公衆VS奉行人
本によっては「奉公人」「奉行人」と書いているものもあって、読んでいて区別しづらいんですよ。漢字の雰囲気が似ています。
義政は文明15(1483)年6月27日に長谷から東山山荘(後の銀閣)に転居し、それ以降は「東山殿」と呼ばれていました。政務を息子の義尚に譲って引退していたものの、この困った息子にほとほと手を焼いていました。特に義政を困らせたのは、義尚の親衛隊である奉公衆(ほうこうしゅう)と、義政に忠誠を誓う事務官僚・奉行人(ぶぎょうにん)の衝突事件です。
きっかけは、文明17(1485)年1月4日に、将軍義尚への年始の挨拶を、奉行人が例年の順序を守らず奉公衆より先に行ってしまったことでした。
面子をつぶされた奉公衆は激怒し、奉行人を武力で討伐するなどと物騒なことを言い出しました。奉行人の中心人物である布施英基(ふせひでもと:?~1485)は義政のお気に入りだったものの、義政としても息子の将軍としての権威に傷を付けたくありません。5月17日に義政は布施英基に隠居を薦めたものの、布施はこれを拒絶しました。
義尚は自分に付き従う奉公衆を贔屓し、父の側近である奉行人を嫌っていますから、5月19日には布施英基討伐令を出してしまいます。5月23日には命令を受けた奉公衆数百騎が布施邸に押し寄せますが、義政が事態を解決しようと動き、5月25日には安富元家の警護の元、布施は都落ちしていきました。
しかし奉行人側も黙ってはいません。同日には奉行人40名あまりが抗議のため剃髪して引退を表明し、幕府の政務は停滞してしまいます。
義政はせっかく事を穏便に済ませようとしたのに、奉公衆も奉行人も意地を張るばかりで、事態は悪い方に転んでいきました。
6月15日に義政は出家しました。この奉行人と奉公衆の対立に苦しんだ結果、引退によって自らの影響力を削ぎ、政務を義尚に一元化しようと考えたのでしょう。その一方で、ボイコット中の奉行人たちへの働きかけを続け、8月15日には奉行人33人を還俗させて政務に戻らせることに成功しました。これで政務が再開できそうです。
ところが、このとき布施英基の政務復帰もあわせて認められたことが物議を醸します。奉公衆の反発はすさまじいものでした。
復帰した布施英基は、12月26日に東山山荘の義政を訪問後、次は義尚のいる小川御所に参上して挨拶をしようとしました。ところがその場で奉公衆らに殺害されてしまったのです。どう考えても義尚の指示によるものでした。
義尚がいつまで経っても将軍にふさわしい落ち着きを持ってくれず、義政は困り果てて息子を指導する意欲も失ってしまいました。これ以降、義政はほとんど義尚に口出ししなくなりました。
今のところ一年少し先まで下書きを書いていますが、そのうち忙しくなって連載を続けられなくなるのでは、と不安を感じています。
